天下人・豊臣秀吉には、「最下層出身」という説と並んで、もう一つ正反対の出自の説がありました。それは、天皇の御落胤説です。
なぜ、秀吉は自らの出自をここまで“盛る”必要があったのか?
史料に残された言説、後世に膨らんだ神話をもとに、歴史学者・呉座勇一さんが秀吉という人物の「劣等感と自負心が同居する内面」に迫る1冊——『真説 豊臣兄弟とその一族』より、今回は秀吉の御落胤伝説に関連する一節を抜粋してお届けします。
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御落胤伝説はなぜ生まれたか
一方、良く知られているように、秀吉の出自に関する異説として、彼が天皇や貴族の血筋に連なる高貴な出自を持つという御落胤(ごらくいん)伝説が存在する。秀吉の母が高貴な人物の子を産み、それが秀吉であることを匂わせた史料が散見される。秀吉の父が誰であるかについて、具体的に言及していない点が特徴である。
秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)である大村由己(おおむらゆうこ)が記した秀吉の伝記『天正記(てんしょうき)』の一部をなすものとして、『関白任官記(かんぱくにんかんき)』という史料がある。『関白任官記』の奥書には「天正十三年八月吉日」とあり、同年七月の関白任官直後に執筆されたことが分かる。

関白に就くために必要だった「高貴な物語」
この史料によると、秀吉の祖父は萩の中納言という人物で、讒言(ざんげん/事実ではなく、偽って悪口を言うこと)によって、尾州飛保村雲(びしゅうひぼむらくも)に流された。その後、中納言の娘(秀吉の母)が上洛して宮中に仕え、程なく子どもが生まれた。それが秀吉だというのである。明記はされていないが、秀吉が天皇の御落胤であることがほのめかされている。
なお、俳人・松永貞徳の『載恩記(たいおんき)』にも、秀吉が「わが母若き時、内裏のみづし所の下女たりしが、ゆくりなく玉体に近づき奉りし事あり」と落胤を匂わせる発言をしたと記載されている。
しかしながら、萩の中納言という公家同時代の史料では確認できないので、この御落胤話は創作だろう。秀吉が公家社会の最高の地位である関白に就任するにあたって、関白にふさわしい高貴な身分の人間であるという宣伝を行ったものと考えられる。

