日輪受胎と「日吉丸」――自ら神話をまとう天下人
『甫庵太閤記』に見える、秀吉の母が懐中に日輪を入れる夢を見て懐妊したという日輪受胎伝説も同様である。この日輪受胎伝説は、秀吉が海外諸国に送った外交文書に既に見えており、秀吉が日本の最高権力者としての権威を示すため、「日輪の子」という形で自己の出生を飾ったものと考えられている。
秀吉の幼名とされる「日吉丸」についても、古くから日吉大明神(ひえだいみょうじん)との関連性が指摘され、秀吉の出自を探る手掛かりとして注目されてきたが、これも後年の創作である蓋然性が高い。秀吉は日吉大明神を彷彿(ほうふつ)とさせる幼名を持っていたことを喧伝(けんでん)することで、宗教的権威や神秘性を自身に付与しようとしたと考えられる。

劣等感と誇りは、なぜ同時に存在したのか
秀吉が御落胤伝説を創り上げた背景には、当時の武士社会における身分秩序の存在が挙げられる。戦国時代というと下剋上のイメージが強いが、依然として身分の壁は厚かった。
秀吉はそのハンデを打ち消そうと荒唐無稽な皇胤(こういん)説を吹聴したのである。
以上のように、御落胤説は史料的な根拠が薄弱である。かえって、このような粉飾をしなければならないほど、秀吉が現実には低い身分から成り上がった人物であることを示している。出自の卑しい秀吉は天下人にまで上り詰めてなお、劣等感に苛まれたことであろう。
だが一方で、秀吉が己の力のみを頼りにのし上がったことを誇りに思っていたことも事実である。秀吉は天下統一の総仕上げとして小田原北条氏討伐を決意する。

秀吉は天正十七年十一月二十四日付の朱印状で北条氏直(うじなお)に宣戦布告する。この朱印状は氏直だけでなく諸大名にも送られた。その中に「秀吉若輩之時、孤と成て、信長公の幕下に属す」という一節がある。秀吉は若き日に故郷を飛び出し、親類縁者の助けを借りずに徒手空拳から成り上がったと公言しているのだ。
中世社会で最も重要な人脈は一族郎等である。親類も家臣もいない状態からスタートした秀吉の労苦は並大抵のものではなかったはずだ。上の一節からは、そうした秀吉の自負がうかがえる。
こんな逸話がある。小田原征伐後、秀吉は鎌倉に寄り、鶴岡八幡宮を参拝した。社殿内に鎮座する源頼朝の木像に対して「あなたと私は裸一貫から天下を取った。しかしあなたと違って私には家柄もなかったのだから、私の方が上だろう。とはいえ、あなたと私は天下友だちだ」と語ったという。
これは江戸初期に編まれた豊臣秀吉の伝記『川角(かわすみ)太閤記』に見える逸話で、その後、軍記物『関八州古戦録(かんはっしゅうこせんろく)』などにも収録された。おそらく創作だろうが、案外、本質を衝いた逸話ではないだろうか。劣等感の裏返しとしての自負心という秀吉の複雑な心情を上手く伝えていると思う。

