テクノロジーと差別問題を専門とし、ネット上のヘイトスピーチや人権侵害の是正に取り組む弁護士の宮下萌さん。
2024年1月に提訴された「人種差別的な職務質問をやめさせよう!訴訟」で、弁護団の一員として活動している宮下さんが差別問題に取り組むようになった原点は、ロースクール時代の経験にあったという。
「エクスターンシップでお世話になった自由人権協会を通じて、高校無償化から除外された朝鮮学校裁判の弁護団会議に参加する機会がありました。
それまで朝鮮学校の存在を深く意識したことがなかった私は、国が平然と公的に差別的な扱いをしている現実を目の当たりにして大きな衝撃を受けました。
同時に、そうした状況を知らずにいた自分自身にも驚いたんです。このまま何も知らずにいてよいのだろうか──そんな思いから、差別の問題に関わるようになりました」
現在、宮下さんは弁護士として実務に携わる一方で、大学院に在籍し「統計的証拠と司法」をテーマに研究を続けている。
統計データはいかに司法の場に活かせるか。そして日本社会から差別をなくすために何が必要なのか。宮下さんに聞いた。(取材・文/塚田恭子)
●ネット空間が「現実社会」を浸食する
学生時代は研究職にも関心があったという宮下さんだが、エクスターンでの経験を通じ、弁護士を目指すようになった。
「私が朝鮮学校の無償化排除の裁判に関わり始めた2016年は、ヘイトスピーチ解消法が施行された年でもありました。
安保法制や共謀罪に反対する国会前デモに参加したり、朝鮮学校裁判のボランティアとして院内集会の運営スタッフを務めるなど、社会問題に対して自分なりに行動を起こし始めた時期でした」
司法試験合格後は、朝鮮学校の高校無償化排除裁判の弁護団メンバーが在籍する法律事務所に入所。さらに国際人権NGOの特別研究員として反レイシズムに関するリサーチやロビイング活動にも関わるようになった。
そうした活動の当初から、宮下さんは「ヘイトスピーチの形態がオフラインからオンラインに変わりつつある」と考えていたという。
「ヘイトスピーチ解消法の施行以降、路上での差別的デモは減少しつつあります。しかし、ヘイトは形を変え、今ではネット空間が現実社会を浸食しています。
2020年の木村花さんの事件(*1)を契機に、2022年10月にはプロバイダ責任制限法(プロ責法)が改正されて、インターネット上の人権侵害に関する発信者を特定するための裁判手続きは、以前よりやりやすくなりました。
ネット上のヘイトスピーチや人権侵害が深刻なのは、一度拡散すると、完全に消すことが極めて難しい点にあります。被害者からの削除要請の声を受けて、2025年4月には、プロ責法を改正した情報流通プラットフォーム対処法も施行されました」
●「表現の自由至上主義」は通用しなくなっている
こうした流れに水を差したのが、2025年1月7日、米Meta社のザッカーバーグ氏による「アメリカのファクトチェックをやめる」という発言だった。
「あの発言は、差別や人権侵害に対するネット上の環境改善について、ようやく一定のコンセンサスが形成されつつあった中での『ちゃぶ台返し』でした。直後のトランプ大統領就任とあわせて、非常に衝撃を受けました。
トランプ政権下のアメリカでは、多様性・衡平性・包摂性(DEI)が攻撃の対象となり、日本でもその影響を受けて、DEIをめぐる取り組みが後退していると宮下さんは指摘する。
「企業や地方自治体などの組織には、DEIを崩そうとする言論に対して正面から向き合ってほしいですが、組織の努力だけでは限界があります。
根本的な問題は、日本には包括的な差別禁止法がないことです。何が差別なのかという規範が明確でなく、止めるための指針もありません。
その結果、レイシャルプロファイリングのように『外国人は差別してもよいのだ』という無意識の刷り込みが、警察官の側にも生じているのではないかと思います」
これまで日本の法曹界は「表現の自由」を重視し、制限に慎重な姿勢をとってきた。
「表現の自由至上主義を掲げてきたアメリカは『思想の自由市場のもとでは悪い言論は淘汰され、良質な言論が生き残るから、政府は介入すべきでない』という立場をとってきました。
ただし、思想の自由市場は、一定のルールの下に成立するものです。トランプの登場により、国家と巨大テック企業が結びついた現在、その前提は崩れています。
ヘイトスピーチ解消法の施行から10年が経とうとしていて、この間の蓄積によって、ヘイトスピーチとは何かについて一定の類型化も進みました。
適切な言論空間を維持することを妨げるヘイトスピーチについては、他の権利との調整の中で、規制が成立する段階にすでに到達していると考えています」

