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40歳まで「無自覚なヤングケアラー」だったノブコブ徳井健太、自ら死を選んだ母と幼い妹との過酷な日常を“笑い話”だと思い込んでいた理由

40歳まで「無自覚なヤングケアラー」だったノブコブ徳井健太、自ら死を選んだ母と幼い妹との過酷な日常を“笑い話”だと思い込んでいた理由

徳井健太が語るヤングケアラーだった過去
徳井健太が語るヤングケアラーだった過去 / 撮影=鈴木康道

今、ヤングケアラーの体験者として講演活動を行っている平成ノブシコブシの徳井健太。40歳まで自身の子ども時代がヤングケアラーだという自覚がなかったという。高校生はおろか、義務教育の年齢の子どもが家族の世話を日常的に行う環境に置かれ、学業や同世代との時間を失ってしまうヤングケアラー問題。家庭内というデリケートな事情、家族・本人に自覚がないことが多いため表面化しにくく、隠れた社会問題となっている。徳井も小学一年の頃から母と年端も行かない妹の面倒を見るヤングケアラーだった。気付きたくとも、気付くことが難しい。気付いてあげたくても、それも難しい。だからこそ、この問題の正体を知る必要がある。笑えない過去を“笑い話”だと思い込んでいた彼が、40歳でようやく自分の傷に気づき、今、何を伝えようとしているのか。徳井の話に耳を傾けてほしい。

■無自覚なヤングケアラー、気付いたのは40歳のとき

――現在、徳井さんはヤングケアラーについての講演を行っているということです。どのような経緯で始まった活動なのでしょうか?

経緯は言ってみればヤングケアラーあるあるで、僕自身、そう(ヤングケアラーだと)思っていなかったことが始まりにあります。40歳になるまで自覚もないし、ヤングケアラーが何かも知りませんでした。

――徳井さんは今45歳ですよね。ほんの5年前までおかしいと思わなかった…と?

この話をすると皆さん同じ反応をしますね(苦笑)。まず、自分がつらいと思ったことがなかったんですよ。当時は小学生。父は家にいない、母は動かない、まだ幼稚園にも行けない6つ下の妹がいる。じゃあ、料理も洗濯も家のことは全部自分がやるしかないかって、そんな感覚です。

母は確かに変でしたが、そのときの様子を僕はずっと“面白い話”として周りに話していたんですよ。例えば「家に帰ったら母親がずっと少しずつコンセントにケチャップを乗せている事件」があって、それを楽屋で笑い話にして話したら先輩たちが面白いと言ってくれた。

だからお客さんの前でネタにしてめちゃくちゃ喋ったら、ものすごくスベって。なんでスベってるんだろうと、若手の頃はずっと不思議に思っていました。例えばご飯にウインナーが刺さって出てきたら面白いじゃないですか。なのに反応なしで、だだスベリです。

――それはスベっていたのではなく、引かれていたのと違いますか?

そうでしょうね。もしくは可哀想と思われていたんだと思います。でも僕は自覚がないから。その時分、若手芸人のネタを見に来てくれていた女の子が後にお笑い系ライターになって、僕が40歳のときに書いた「敗北からの芸人論」(新潮社)でインタビューに来てくれたんですよ。そのとき、開口一番に「徳井さんってヤングケアラーなんじゃないですか?」と言われました。

「徳井さんがいた状況はヤングケアラーだと思う」と言われ、何のことか分からないから家に帰ってネットで調べたら、「なるほど、これか」と。自覚というか、初めてヤングケアラーを知ったのがそこです。それから人づてに僕の身の上が伝わり、講演を依頼されるようになったという経緯です。

■ヤングケアラーが表面化しにくいのは、外から見れば普通の子だから

――小学生の頃からで、周りと比べて「うちは違うな」と思うこともなかったのですか?

今であれば、そう言われるのも分かります。でも、そもそも母が料理のできない人だったんですよ。様子がおかしくなる前からご飯にウインナーを突き刺したのが朝ご飯。そんなのが当たり前で、給食を食べるようになってからですね。ご飯ってもっと美味しいんじゃないかと気付きだしたのは。

小1のとき、母にウインナーはフライパンで炒めたら美味しいと思うと言ったら、「私はそういうのができない」と言われたので、「じゃあ、俺がやろうか」となった。これはヤングケアラーとはまた別の、お手伝いですね。目玉焼きも作れそうだな、煮込みも行けそうだなって。そうしたら料理が上手くなりました。

母が引き篭もってからも当たり前のように家事を全部して、友達の家でお母さんが料理しているのを見ても、「俺もできるけどな」と思うくらい。「いいな」とは全然思わなかったですね。「これ、本ダシ入れれば美味しくなるのに」って、むしろそんな風に思っていたくらいです。

それにヤングケアラーって僕に限らず、当たり前と思っていたり、頑張ったりしてしまうから、自分がおかしいとか、助けてほしいとかに向きにくいんです。生活に困窮しているわけでもないから、外から見ているだけだと普通の子。だから、表面化しにくい問題なんだと思います。
ヤングケアラーだった過去を語る徳井健太
ヤングケアラーだった過去を語る徳井健太 / 撮影=鈴木康道


■愛も義務もなく、ただ無でやっていた妹の世話

――踏み込んだことをお聞きしますが、お父様はどうされていたのですか?

父は田舎が嫌いだったんだと思います。僕の故郷、北海道の別海町はド田舎で、父は製鉄会社の社員。小2あたりだったのかな、千葉に単身赴任で移ることになりました。そこで会社から、「徳井くんは有能だから課長や部長になってほしい。だけど役職に就くには大卒か短大卒じゃないとダメだ。会社が金を出すから神戸の短大に行け」と言われたらしいです。給料も学費も全部出すと。嬉しいじゃないですか。父は上昇志向の強い人だったから、相当頑張ったんだと思います。

母が変になったのは、単身赴任から半年後あたりからです。一番覚えているのは、小6のときのことですね。うちは製鉄会社の団地だったんですが、家に帰ったら母が窓の下にしゃがんでいて。「どうしたの?」と聞いたら、「しー! 隣から誰かが見てる」と言われました。僕はコントをやっているのかと思い、チラッと見て「本当だ!」と言ってしまった。そこから母は本当に家から出なくなりました。コントだと思って乗っかってしまったのは失敗でしたね。

――いわゆるうつ病ですか?

重度の精神疾患です。30年前はうつ病への理解なんてなかったし、広い括りで精神病。心の病という優しい言葉で理解が進んだのは最近じゃないですか。当時は気のせいとか、サボってるだけとか、そんな認識ですよ。小6の僕は当然カケラの知識もなく、そのとき、母はとっくに限界を超えてしまっていたんです。

小6の僕と小1の妹、心の病の母。父は数か月に一度電話を入れて来るくらい。かなりファンキーな家庭でした。母は暴れるし、アルコール依存にもなっていたと思います。そのくらいから僕は“無”になっていましたね。講演会では、「小さいのに妹さんのお世話をして偉かったね。優しかったね。愛があるね」と言葉をかけられますが、そんなんじゃないんですよ。

小1の子どもが家にいて、放っておいたら死ぬじゃないですか。だから、ただそれだけです。一人分作るのも二人分作るのも正直変わらないから、「妹の分も作るか」という感じ。妹が学校行かないとかになるのも気分が悪いから、「明日は国語と算数でしょ」と言って準備をさせていた。愛でも義務でもなく、ただ無でやっていただけです。

■母は自死、それでも感情は何も動かず、受け止めただけ

――どういうきっかけがあって、その状況から抜け出せたのでしょうか?

18歳になって、東京に出ると決めたときですね。とにかく家族とは縁を切ろうと決めて。母の心の病もよくならないし、僕はあまり愛を受けて育っていなかったので、とにかく離れたかった。中高の記憶はほとんどありません。新聞配達も始めて、それも「偉いね」と言われますが、家には1円も入れていません。全部自分のためで、CDを買っていました。青春の記憶はないし、恋愛もなく、ただ家事と新聞配達に追われていました。

18歳で東京に出たのは、このまま別海にいて、母の面倒を永遠に見ることになるとなったら、母を殺すか自分が死ぬかの二択になると思ったからです。だから抜け出せたというより、放ってきたという方が正しいですね。

――今、ご家族とは?

父は母が亡くなったあとに再婚しました。妹とはあまり連絡をとっていません。

――お母様は治療を受けずに亡くなられたのですか?

東京の有名な精神科の病院で診てもらいはしました。檻のような部屋でした。そこで先生から、「人間にはバケツがあるんです。容量は人それぞれですが、普通はストレスが溜まったら音楽を聴いたりお酒を飲んだりして減らす。お母さんの場合は減らずに増え続け、バケツも小さくなっているから治らない」と説明を受けました。2、3か月に一度爆発する。それが一生続くと。治療はもうできないというから、保護ですよね。

母は自死で、「ピカルの定理」の出演中に、妹から電話がかかってきました。正直、全く感情が動きませんでした。「しょうがないか」くらいにしか思わなかったです。母は53歳くらいだったかな。悲しくもないけど、ホッとしたわけでもなく、ただ「亡くなった」という事実を受け止めただけです。実際、連絡を受けたそのまま、コントの収録を撮りましたから。

今であれば、そうした病院ではなく、もっと伸び伸びできるところに移してあげた方が母のためになったのかなと思わなくもありません。

■虚無だった心を救ってくれたのは、一年怒ってくれた小籔千豊

――芸人の道に進んだのは、家庭環境と何か関係があるのでしょうか?

全くありません。これも因果な話ですが、仕事を真剣にやるのは好きですが、自分から何かをやる気はなかったんですよね。料理はできたから調理師学校に行こうと思っていた程度です。それが進路希望を出すという日、クラスで一番人気の女子に「徳井くんは絶対芸人になった方がいいと思う」と言われて。

正直なぜだか分からなかったです。僕は面白いことをする人間でもないし、明るくもなかったから。でも、「徳井くんみたいな人が芸人になった方がいい」と強く言われ、じゃあ芸人でいいかと思ってNSC(吉本総合芸能学院)と書きました。面白いことをしたいとも、人を笑わせたいというのもなく、本当にただそれだけです。

――吉村崇さんと平成ノブシコブシを組んだあとも、お笑いを面白いと思っていなかった?

だと思います。僕はNSC時代から「組まない?」と言ってきた人と組んで、ネタを書いてくれたからそれをやる。役者みたいな感じです。吉村からも「組まない?」と言われたから組んだ。吉村がネタを作りたい、ボケをやりたいと言うので、「分かった」と。吉村はきっと「もっと熱を持て」と思っていたでしょうけど、僕は30歳くらいまでずっとそんな感じでした。情熱がないから、辞める理由もない。感情がない。虚無でした。

――よくそれでコンビを解散しませんでしたね。

解散の話は三度出ています。僕が「分かった」と言うと、次の日に「すまん、もう一回やろう」となるのが3回。彼はもっと「なんでだよ!」と言ってほしかったんだと思います。

――虚無だった徳井さんの心を助けてくれたのは吉村さんですか?

ではなく、小籔千豊さんと千鳥のノブさんですね。15年くらい前は「どこまで尖れるか」という競争でした。倫理観も教育もなされていない僕は、突飛なことが言えるからすごく褒められた。でも「ピカルの定理」が終わって仕事がなくなって、丸くなるくらいなら尖ったまま死ねばいいと思っていたときに、小籔さんに全否定されました。それが35歳のときです。

今まで褒められてきたことを「全然おもんない」と言われ、マナー、人の気持ち、スポンサーの気持ちを考えていないと毎日説教されました。本当に丸々一年、毎日怒られました。それがあって、僕も今までの自分は間違っていたんだと悔い改めることができました。

そのときのこと、小籔さん自身はあまり記憶にないみたいです。僕に限らず、普段からいろんな人に言っているんでしょうね。僕はへこたれない性格だったので、毎日ご飯を食べさせてもらって、怒られて。今があるのは小籔さんのおかげです。

――恩人のような方ですね。ちなみにもう一度お聞きしますが、吉村さんに救われた部分は?

ちょっとないかも(笑)。彼は野心家です。仲は悪くないですが、すごくいいわけでもない。吉村は「売れたい」があった。僕は「面白いことをやるだけでいい」と思っていましたが、吉村はそれを形にして伝えたいという気持ちがあったんですよね。彼からすれば、僕のそんなところは嫌だったでしょうね。申し訳なかったと思います。でも、今でも解散しないでいてくれるのは、吉村の優しさなんじゃないかなと思います。

■優しい方々には「豚汁を10回運んでほしい」

――講演では、ご自身の体験をどのように話しているのでしょうか?

僕は何かを学んできたわけではないので、当時の母の様子、自分のことをそのまま話しているだけです。それこそ最初、芸人の先輩やお客さんの前で話していたように。

――笑える話ではないものを?

そうですね(苦笑)。芸人は強いから面白いとしてくれていましたが、お客さんは違いました。年表に沿って話すと皆さん最初は「大変だったな」と思うみたいですが、最後のアンケートでは「徳井さんの話を聞いて、よりヤングケアラー問題をどうすればいいか分からなくなってしまいました」と書かれるくらいです。講演には偉い先生や教授といった方も来られますが、反応は同じですね。だから僕は、当人は大人になっても、自分が大変だったと自覚していないことが多いですよ、と伝えています。

――聴講にはどのような方々が来られるのですか?

何とかしたいという優しい方、子ども食堂の方、民生委員の方、学校の先生。そういう方々ですね。「なんで救えなかったんだろう」と言う先生もいますが、僕は「それは無理だ」と返しています。当事者は自分がヤングケアラーだという自覚がない。だから、ヤングケアラーを救うのは甘くない。

もし僕が10人いたら、半分は犯罪者になっていてもおかしくないし、25%は死んでいる。残りの25%が運良く僕みたいに生きていると思う。優しい人たちは、僕の話を聞いて最後は絶望して帰っていかれます。「思っていたより難しい」「声を出さない人をどう助ければいいのか」と。

――それに対して徳井さんはどう考えられていますか?

正直、中・高の学校で喋った方が、人助けになるんじゃないかと思います。生徒が「あいつの家って?」と気付いてくれるかもしれない。僕はダウンタウンさんと、お笑いと音楽が好きでした。自分がなるという考えはなくても、好きではあったんですよね。新聞配達と学校と家族の面倒で、1日2時間くらいが自分の好きな時間でした。

その時間をもし母に「そんなの聴いてないで勉強しなさい」と言われていたら、僕は生きていたか分かりません。だから当事者には、「誰に何を言われても、自分の好きなことや得意なことをやめないでほしい」と言いたい。そして、優しい方々には「豚汁を10回運んでほしい」と言っています。

隣のおばちゃんが「豚汁作ったんだけど食べない?」と言ってきても、僕は、最初は「いらない」と言います。でも5回、10回としつこく持ってきてくれたら、「こんな美味しい豚汁を毎日食べられたらラッキーだな」と一言こぼすかもしれない。そこから「お母さんに作ってもらえばいいのに」「うちは作らないから」「いつも徳井くんが作ってるの?」という糸口が見つかるかもしれない。

これは物の例えですが、「あの子ヤングケアラーかも」と思う子がいたら、10回豚汁を運んであげてください、というのが僕の投げかけです。

――毎日怒ってくれた小籔さんのように?

そうですね。僕は小籔さんに出会って、毎日お説教を受けたことで考え方や姿勢が変わりました。だからヤングケアラーや虐待されている子を救うのは難しいですが、その子が大人になってから考え方を変えることはできる。自分も変われましたから。

■ヤングケアラーという言葉がもっと面白い言葉として社会に浸透してほしい

――福祉に訴えたいことはありますか?

福祉というより、社会に対してはあります。ヤングケアラー問題を解決しようとするなら、「ヤングケアラー」という言葉がもっと面白い言葉として世の中に広がっていかなければダメだと思います。ハラスメントも、もはやボケみたいになっているじゃないですか。

「それハラスメントだよ」と言えるくらいに、「お前、ヤングケアラーじゃねえんだから」というツッコミが成立するくらい、世の中に浸透して当たり前の言葉になって、初めて学校内で「あの子、ヤングケアラーなんじゃないか」と気付けるようになる。

僕が講演などで喋ることで、賛否あっていいので、どんどんその言葉が普通の言葉になっていくのが一番大事かなと思います。

――講演などの社会的な取り組みと、芸人としての自身の見られ方のバランスはどう考えていますか?

意外と変わらないですね。僕の講演は、他の方の講演よりもネタみたいにやっているつもりです。言い方や順番、スライドを何度も練り直して、講演というより、台本のある1時間半の単独ライブみたいな感じです。ウケるところはウケて、お年寄りも多いので優しい笑いですけど、「ふふっ」という反応があると、「よし、ここはウケた」と次の叩きにします。

専門家ではないので大それた改革はできませんが、自分の人生を語って、皆さんに何か一つでも持って帰ってもらえればと思っています。

◆取材・文=鈴木康道

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