
1月27日に放送された「プロ野球 レジェン堂」(毎週火曜夜10:00-10:55、BSフジ)に登場したのは、アメリカ統治下の沖縄からプロ野球選手となり、“巨人キラー”としても名を馳せたレジェンド・安仁屋宗八。MCの徳光和夫、遠藤玲子とともに、激動の時代を生き抜いた幼少期から甲子園出場、そして代名詞となる鋭いシュート誕生の秘話まで、濃密すぎる野球人生を振り返った。
■テントの布で作ったグローブ…戦後沖縄で育った野球少年の原点
番組冒頭で語られたのは、2025年11月に行われた広島東洋カープの「レジェンドゲーム」。81歳の安仁屋がマウンドに上がり、見事な投球を披露するとスタンドのファンから大きな歓声が上がっていた。番組で安仁屋は「(ボールが)届いて良かったです」と謙遜したが、歳月を重ねても衰えないフォームは見事のひと言。往年のカープファンのみならず、多くの野球ファンの記憶に刻まれるワンシーンとなった。
安仁屋は戦時中であった1944年生まれ。誕生して間もなく沖縄から大分へ疎開したというが、当時は飛行機もフェリーも利用できなかった。“サバニ”とよばれる木造船を漕いで海を渡ったといい、まさに命がけの逃避行だったという。
戦争が終わると、家族は沖縄へ帰還。米軍が駐留していたため野球は盛んだったが、物資不足で道具の調達に苦労した。ここで徳光が「最初のグローブは覚えてますか?」と問うと、安仁屋は「母親がテントの布で縫ってくれたグローブを使っていた」と告白。着飾った苦労談・美談としてではなく、あの時代のリアルを淡々と語る姿が印象的だった。
また当時の沖縄ではテレビの野球中継がなく、読売ジャイアンツ戦が1カ月に1回の頻度で録画放送される程度。安仁屋の自宅にはテレビがなかったため、憧れの長嶋茂雄や藤田元司のプレーを友人の家で観ていたという。
後に“巨人キラー”として名を残すことになる安仁屋の原点には、戦後の沖縄という環境の厳しさと、それでも野球に向かわせたハングリー精神が確かに存在していた。
■“持ち帰り禁止”の甲子園の土に、安仁屋がとった行動
安仁屋の母校・沖縄尚学は今でこそ古豪として知られるが、安仁屋が入学した当時は創立間もない時期。野球部員も少なく、安仁屋は補欠からのスタートだったという。しかし打撃投手を務めていた安仁屋はコントロールの良さを買われ、1年秋の試合でいきなり登板。抑えに成功した試合をきっかけに、エースとして活躍していく。
3年夏の決勝では首里高校に勝利し、県大会優勝。続く南九州大会でも宮崎大淀高を4-2で下し、沖縄県勢初の甲子園出場を決めた。だが当時の沖縄は米軍統治下にあり、植物防疫法の関係で甲子園の土を沖縄へ持ち帰ることが禁止されていた。それでも安仁屋たちは靴下にわずかな土を忍ばせ、母校へ帰った後にグラウンドへ撒いたという。いまの感覚では想像もつかないエピソードに、徳光と遠藤は驚くばかりだった。
高校を卒業した安仁屋は、民間のたばこ会社へ就職して社会人野球で活躍。そこで大分鉄道の関係者から補強選手のオファーを受けて登板すると、3回無失点の好投を見せる。その際はバットを3本へし折ったというから、球威が知れるというものだ。さらにこの当時、キャッチャーから助言を受けたことがきっかけで安仁屋の代名詞ともいえる鋭いシュートが誕生。意外な秘話に、スタジオがどよめくのだった。
またプロ野球選手として広島へ入団した安仁屋は、“巨人キラー”として名を馳せることになる。だがある日、安仁屋は長谷川良平監督から「おまえをローテーションから外して巨人戦にぶつけようと思うんだが」と告げられたという。それは巨人戦で3連投することを意味していた。
投手としては肘や肩への負担があまりにも大きいため、普通なら拒否反応が出てもおかしくない戦略だ。しかし安仁屋は判断を監督に一任し、実際に3試合連続で登板することも何度かあったという。
「巨人戦で投げて名前を残すか」「それとも無理をせず安定した成績を残すか」という究極の二択。プロ野球選手としての“価値観”そのものを表すエピソードだ。安仁屋は挑戦を選び、結果を出し続けたからこそいまもなお“巨人キラー”として語り継がれているのだろう。
■“巨人キラー”誕生の裏にあった安仁屋の覚悟
安仁屋のエピソードで何より心を打ったのは、沖縄では巨人戦しかテレビ放送がなかったという背景にある。巨人戦で投げることは沖縄の家族に自分の姿を見せることでもあり、安仁屋にとっては何よりの親孝行の形だったのだ。
“巨人キラー”という異名は単に巨人に強かった投手のことではなく、1人の野球選手が遠く離れた家族のために紡いだ物語の結晶でもあった。
安仁屋宗八の野球人生は、戦後の沖縄野球史を体現してきたといっても過言ではない。レジェンドたちの人生そのものを振り返る貴重な番組として、今後も「プロ野球 レジェン堂」に期待したい。

