なぜ人類はアートを作り始めたのか
現在確認されている最古の芸術作品は、約4万年以上前に遡ります。インドネシアのスラウェシ島にある洞窟で発見された壁画は、少なくとも4万5千年前のものとされており、ヨーロッパで見つかった初期の洞窟壁画とほぼ同時期か、それより古い可能性があることが近年の研究で明らかになっています。これは、芸術表現が特定の地域だけでなく、世界各地でほぼ同時期に発生した可能性を示唆しています。
Rhinocéros grotte Chauvet, Public domain, via Wikimedia Commons.
フランス南部のショーヴェ洞窟(Chauvet Cave)で発見された壁画は約3万6千年前のもので、馬、ライオン、サイなどの動物が驚くほど躍動的に描かれています。さらに有名なラスコー洞窟(Lascaux Cave)の壁画は約1万7千年前のもので、牛や馬、鹿などが色彩豊かに表現されています。これらの洞窟壁画を見ると、当時の人々がすでに高度な観察力と表現技術を持っていたことが分かります。
しかし、なぜ彼らは暗い洞窟の奥深くに、これほど精巧な絵を描いたのでしょうか。単なる装飾だったのか、それとも何か別の目的があったのか。この問いは、アートの起源を考える上で非常に重要な手がかりとなります。
生存のための魔術か、それとも別の何かか
洞窟壁画の目的について、長い間最も有力とされてきた説は「狩猟魔術説」です。これは、壁画に動物を描くことで狩りの成功を祈願したり、獲物を確保するための儀式を行ったりしていたという考え方です。実際に、多くの壁画には槍で突かれたような痕跡が描かれている場合もあり、この説を支持する証拠のように見えます。
しかし、近年の研究では、この単純な解釈に疑問が投げかけられています。例えば、壁画に描かれた動物と、実際に当時の人々が食べていた動物の骨が一致しないケースが多いのです。ラスコー洞窟では馬や野牛が多く描かれていますが、近くで見つかった骨の大半はトナカイのものでした。つまり、彼らは自分たちが実際に食べている動物ではなく、別の理由で特定の動物を選んで描いていた可能性が高いのです。
また、壁画が描かれた場所にも注目すべき特徴があります。多くの壁画は洞窟の奥深く、到達するのが困難な場所に描かれています。日常的に人が集まる場所ではなく、特別な儀式のために訪れる聖域のような空間だった可能性が考えられます。
音響学の研究によると、壁画が集中している場所は音の反響が特殊で、声や音が不思議な響き方をする場所であることも分かってきました。当時の人々は、音と視覚の両方を使った何らかの儀式を行っていたのかもしれません。
Cueva de las Manos, Public domain, via Wikimedia Commons.
さらに興味深いのは、壁画の中に手形が多く残されていることです。時代や地域は大きく異なりますが、人類史の中で繰り返し現れる表現として、ショーヴェ洞窟やアルゼンチンのクエバ・デ・ラス・マノス(Cueva de las Manos、手の洞窟)などでは、壁に手を押し当てて顔料を吹き付けた跡が無数に残っています。
これは「私はここにいた」という存在の証明であり、個人のアイデンティティを示す最も原始的な表現かもしれません。
