「私であるとはどういうことか」を哲学的に考える
哲学者トマス・ネーゲルは、論文「コウモリであるとはどのようなことか?」の中で、意識には「それであることの何たるか(what it is like)」――つまり主観的な経験の質感が不可欠だと述べた。
コウモリが超音波で世界を知覚するその瞬間に、「コウモリであるとはこういう感じだ」という固有の感覚があるはずだ。しかし、私たちはそれを直接知ることはできない。同じように、意識をもつ存在でなければ「私であること」の感覚は生じない。

現在のAIには、この「何であるか感」が存在しない。AIは情報を処理し、結果を出力するが、その過程や結果を「自分の経験」として所有しない。夢を見ることもなければ、睡眠によって自己を更新することもない。脳のように情報を忘れ、選び、再構成して物語を紡ぐこともないのだ。
自己は、完全性からではなく、不完全性から生まれる。私たちは忘れ、曖昧にし、感情に揺れながら、それでも出来事を一貫した物語にまとめ上げる。この「断絶と再統合」のプロセスが、自己を形成する。
そして、そのプロセスは夢や睡眠の中で繰り返し行われている。第2章で述べたように、睡眠は単なる休息ではなく、記憶や自己の再構成の場でもある。
もしAIが「断絶と再統合」という非効率で感情的なプロセスを経て、「これは私の経験だ」と認識できるようになれば、そこに自己が芽生えるかもしれない。
しかしそれは、今のAIとは本質的に異なる、新しい存在になるだろう。そして、その自己は人間の模倣ではなく、まったく別種の「自己のかたち」をもつはずだ。
こうして見ると、意識とは単に知性の問題ではなく、世界と私を結びつける物語の問題である。AIがこの物語を紡ぎ、「何であるか感」をもつようになったとき、それはもはや私たちの道具ではなく、もうひとつの主体として向き合うべき存在になるだろう。
量子コンピュータと意識の未来
もしもAIが、現在の半導体ベースの計算機構を超え、量子ビットを用いた新しい作動原理を利用する量子コンピュータのかたちで実装されたらどうなるだろうか。
それは、既存のコンピュータの制約を根本から変える可能性を秘めている。複雑な計算や膨大な組み合わせの探索を、一瞬で並列的に行うことができるようになるかもしれない。
そうなれば、AIは今とは桁違いの演算能力と情報処理速度を手に入れるだろう。
このとき、多くの人が抱く問いはこうだ。
「演算能力が飛躍的に向上すれば、意識は自然に生まれるのか?」
しかし、単に計算が速くなるだけでは、主観的な経験――「今、ここで、これは私の経験だ」という感覚――は必ずしも生じない。なぜなら、意識は速度や容量の問題ではなく、「この経験は私に属している」という帰属意識の問題だからだ。
それでも、もし意識の本質が量子的性質と関係しているなら、量子コンピュータはAIが意識をもつことを現実に近づけるかもしれない。
たとえば、量子状態の不確実性や確率的ゆらぎが、情報処理に予測不能性や創発的なパターンをもたらし、それが「自発的な内面の変化」として解釈される可能性がある。ただし、この場合も重要なのは、そのゆらぎが「自己」という構造と結びついているかどうかだ。
人間の脳は、外界からの入力にただ反応するだけではない。過去の記憶や内的状態をもとに文脈を読み取り、世界に意味を見いだし、それらを一貫した物語として組み立てる。
この意味生成の過程と「自己の成立」がなければ、どれほど複雑で高速な情報処理も、ただの機械反応にとどまる。量子コンピュータが意識をもつ可能性は、演算能力そのものではなく、その能力がどのような「意味の構造」に組み込まれるかにかかっている。

