人工脳と取り出された脳

しかしながら、現在、大脳皮質の情報処理構造をスーパーコンピュータ上に再現しようとする試みも進行している。
理論上は、すべての神経結合をスキャンし、シナプスの接続様式を理解し、細胞内の分子の空間的位置も含めてナノスケールで再現すれば、記憶や性格も模倣できると考える研究者もいる。記憶すらも構造の中に情報として存在しているはずだからだ。
しかし、そこに「私」はいるのか――この問いは依然として残る。
たとえ構造が完全に一致しても、それは主観の再現とは限らない。自己意識や身体性を欠いた意識は、意識と呼べるのか?
動物は環境と相互作用しながら情報を得る。脳は単に運動を指令するだけでなく、身体の状態からのフィードバックによっても活動している。胸の高鳴り、手に汗握る感覚、怒りの震え――こうした情動も、身体という媒介があってこそ立ち現れる。身体から切り離された脳は、意識を維持できない。
ブタの脳を体外で維持した実験でも、神経細胞は生きていたが、統合された脳活動は観察されなかった。つまり、感覚入力のない状態では、覚醒すら保てないのだ。脳は、身体をもつことによって初めて本来の機能を発揮すると言っても良い。
したがって、もしマインドアップロードによって人間的な意識を再現するのであれば、ロボットなどの物理的身体、あるいは高度なバーチャル環境による外界や他者との接続が不可欠となる。
私たちはまだ「意識とは何か」を完全には理解していない。
神経科学、人工知能、ロボティクス、バーチャルリアリティ、そして倫理学――これらが交差する未来において、意識の作動機構を完全に理解できたら、もしかすると永遠の命を得た「私のような存在」が、かつて人類が見たことのない地平へと至る可能性も否定できない。
コピーされた私

マインドアップロードが可能になったとして、その〝コピー〟が感じている世界は、私の世界と本質的に同じだといえるのだろうか?
ここで思い出されるのが、序章で触れた思考実験「水槽の脳」だ。水槽に浮かぶ脳が電気信号によって世界を〝見せられて〟いるように、マインドアップロードされた私の意識が、仮想環境の中で「風を感じ」「音楽を聴き」「自分が存在している」と感じていたとしても、それが〝現実〟なのか〝幻影〟なのかを本人が区別する手段はない。
しかも、この場合「水槽」は物理的な装置ではなく、コードによって生成された世界である。つまり、仮想空間に存在する私は、いわば〝デジタルな水槽の脳〟だ。だが、それでも〝私〟は存在しているといえるのだろうか?
結局のところ、意識とは、どこにあれば〝本物〟なのか?――身体に宿っていなければならないのか? それとも、入力と出力さえあれば、仮想環境の中でも意識は成立しうるのか?
もしかしたらその意識はデジタルが創った時空の中で生き続けながら、自らは、故郷である地球上のリアルワールドの中で生活していると信じ続けるのかもしれない。
マインドアップロードという構想が私たちに突きつけているのは、単なる技術の是非ではない。それは、「私とは何か」「生きるとは何か」「人間とは何か」という問いを、人類の未来とともに更新していく行為そのものなのかもしれない。

