●当事者が否定したら「黙殺」と書けないのか
不可解とされるのは、『いじめの聖域』の出版後、長崎新聞が石川さん本人や出版元の文藝春秋に対して、直接抗議や質問状の送付をした形跡がないという点だ。
つまり、長崎新聞が共同通信に処分を求めたのか、それとも長崎新聞の意を汲んだ共同通信側が自発的に判断したのかが、はっきりしていない。
この点は裁判でも注目された。
2025年9月26日の期日で、当時共同通信の福岡支社長だった男性は、著書発売の翌日に長崎新聞幹部と面会し、「黙殺という認識はおかしい」「危機管理が薄いのではないか」「共同通信としての責任を免れない」などと言われたと明かした。
さらに、「出版差し止めや回収はできないのか」という要望も受けたという。
支社長は、本社から事前に受けていた指示通り、その場で長崎新聞側に「信頼関係を損ねた」などとして謝罪したという。
証人尋問では、報道のあり方そのものが問われる場面もあった。
「もし長崎新聞が『我が社は黙殺していません』と言ってきた場合、『黙殺』と書けないのでしょうか?」
原告と被告の両代理人から同じ質問が投げかけられると、支社長は「しっかりと取材活動がされて、それに足る部分があれば書いていいと思う」と述べた。

●メディアの自殺か…現役の共同記者「現場は萎縮する」
表現の自由をもとに活動する報道機関自身が、その権利を制約する側に回ったのではないか──。今回の裁判は、そうした疑問も呼び起こしている。
大手新聞社の中には、出版や雑誌への寄稿など社外での言論活動に会社の許可が必要とされ、申請が認められないケースもあるといい、「記者個人の表現活動に対する締め付けが厳しくなってきている」との声も聞かれる。
報道機関が自ら記者の「表現の自由」を縛れば、結果として、メディアの自殺につながりかねない。
共同通信の現役社員の一人は「たしかに石川さんの取材や記事の書き方には、他にも方法やテクニックがあったと思うが、社外活動を制約されたら現場は萎縮する」と語り、会社の対応に危機感を示す。
注目の判決は、2月20日午前11時、東京地裁で言い渡される。

