日本の医療費は年々増加し、患者の経済的負担も急速に増えています。こうした状況下で、「費用対効果評価」は医薬品の価値を科学的に判断する手法として期待されています。しかし、その数値を盲信してはいけないと、医療経済を専門とする東京大学の五十嵐中氏は指摘します。日本の医療制度はどこへ向かうのか、2025年10月に開催された「EFPIA Day 2025 プレスイベント」特別講演を編集部がまとめ、再編しました。
五十嵐 中(いがらし あたる)
東京大学 大学院薬学系研究科 医療政策・公衆衛生学 特任准教授。2002年に東京大学 薬学部薬学科を卒業し、2008年に同大学院薬学系研究科博士後期課程を修了。2008年から大学院で特任助教、2015年から特任准教授に就任し、主に医療経済学/薬剤経済学を専門とする。2019年以降は横浜市立大学 医学群 健康社会医学ユニット准教授および東京大学の客員准教授を歴任。医療技術の費用対効果評価やQOL評価指標の構築、医療経済ガイドライン作成など幅広い研究に関わっている。
医療費が家計を破壊する「破滅的状況」の広がり
日本では今、医療費によって家計が成り立たなくなる人が急増しています。国際的な指標では、日本全体での「破滅的医療費支出」の割合はおよそ2.6%とされていますが、これは極めて楽観的な数字です。
高額療養費制度の利用者に限定すると、その割合は17.0%に跳ね上がります。さらに深刻なのは、平均年収以下の層での数字です。この層の高額療養費制度利用者では、実に36.4%が破滅的医療費支出の状態に陥っています。約3人に1人が、医療費によって家計が危機に瀕しているということです。
「破滅的医療費支出」とは、単に医療費が高いという状況ではありません。税金や保険料を差し引いた収入から食費や光熱費など生きるために必須の費用をさらに差し引いた「自由に使える部分」のうち、4割以上を医療費に費やしている状態です。税引き前の総所得の約5~6割程度の金額がこの「自由に使える部分」で、そのうちの4割を医療費に奪われるということは、実質的には総所得の2~3割が医療費に消えることに匹敵する負担なのです。
この状況が生まれた背景には、高額療養費制度の改革の議論と、コロナ禍を経た医療費の増加があります。これまでのように国民一人ひとりの負担を少しずつ増やして、何とか制度を維持するという戦略はもはや通用しない局面であると、五十嵐氏は指摘します。
「国民皆保険」という理想が危機に瀕している
日本の医療制度は「世界に類を見ない」と評価されることがあります。国民皆保険制度により、すべての国民が必要な医療を受けられると考えられてきました。
しかし、国民皆保険の本来の定義は、単に「全員が何らかの保険に加入できる」というものではありません。国際的な基準では「ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ」と呼ばれ、三つの要素が不可欠とされています。第一に「誰もが」、第二に「必要な医療を」、そして第三に「安価に」受けられることです。
このうち最後の「安価」というのは、医療費の額面の安さではなく、その医療を受けることで「家計が苦しくならない」という状態を意味します。そのため、破滅的医療費支出の拡大は、この「安価」という原則が崩壊しかけていることを意味します。
高額療養費制度の利用者の疾病分布を見ると、白血病やリンパ腫といった血液がんが上位を占め、がん領域全体がこの制度に大きく依存していることがわかります。つまり、重症患者の医療費負担を支えるためのセーフティネットがかろうじて機能しているという状態なのです。
こうした現実を踏まえると、現在の日本は果たして「国民皆保険」と呼べるのかという根本的な疑問が浮かびます。医療へのアクセスは確保されていても、経済的負担という側面では、その本来の機能を失いかけているのではないかという指摘も出ています。

