デッサンは芸術のすべて──ドミニク・アングル、古典から未来を開いた画家

01-Jean_Auguste_Dominique_Ingres_004「水浴女」、別名「ヴァルパンソンの水浴女」, La Baigneuse dite Baigneuse de ValpinçonPublic domain, via Wikimedia Commons.

しかし、この徹底した線と理想美への信念は同時代のロマン主義者たちとの激しい論争を呼び、さらには20世紀のピカソやマティスに大きな影響を与えました。古代とルネサンスを理想に掲げながら、結果的に未来の前衛を刺激した画家──それがドミニク・アングルと言えるでしょう。

そんなアングルの魅力をご紹介します。

アングルの生涯

02-Jean-Auguste-Dominique_Ingres_-_Autoportrait_à_vingt-quatre_ans_-_Google_Art_Projectジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル - 24歳の自画像, Jean-Auguste-Dominique Ingres: Self-Portrait Aged 24 Public domain, via Wikimedia Commons.

1780年、フランス南西部モンタバンに生まれた、ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル。父は装飾画家で、幼少から芸術に親しみました。早くから才能を示したアングルは、17歳でパリに出て、新古典主義の巨匠ジャック=ルイ・ダヴィッドのアトリエに入門します。

そこで徹底的にデッサンを鍛えられた経験は、生涯を通じて「線こそ芸術のすべて」という信念につながっていきました。

1801年、権威あるローマ賞を受賞し、留学先のローマで古代彫刻やルネサンス絵画、とりわけラファエロに強く惹かれます。以来、アングルにとって「古典」と「ラファエロ」は美の究極の基準となり続けました。

若い頃、アングルはローマ留学中に歴史画で評価されましたが、パリに送った作品は「冷たく古めかしい」と受けとめられ、なかなか理解を得られませんでした。そのためイタリアに長く留まり、注文を受けた肖像画を描いて生計を立てていました。こうした時期の肖像画には、後の名声を裏付ける精緻さと気品がすでに現れていました。

1825年に師ダヴィッドが亡くなると、アングルは事実上、新古典主義の第一人者と目されるようになりました。古代とラファエロを規範に掲げ、彼は19世紀フランス美術における「古典の守護者」としての役割を担っていきます。

1835年から1841年にはローマのフランス・アカデミー院長を務め、教育者としても多くの弟子を育てました。彼のアトリエは、芸術を学ぶ場を超えて「寺院」にたとえられるほど、理念と規律を重んじる空気に満ちていたと伝えられています。

晩年には、第二帝政下のフランス政府からその功績を認められ、1862年に上院議員に任命されました。その後も制作を続け、1867年1月14日、パリの自宅で86歳の生涯を閉じます。墓はパリのペール・ラシェーズ墓地にあり、今もなお人々が敬意を込めて訪れています。

線と理想美へのこだわり

アングルは「美は輪郭に宿る」と考え、色彩は従とみなし、ひたすら線に重きを置きました。彼にとってデッサンはすべての基礎であり、芸術の核心だったのです。

自然を修正する理由

ではなぜ、彼は自然をそのまま描かなかったのでしょうか。

その背景には、アングルが信奉した「古典」──とりわけ古代ギリシャの彫刻やルネサンスのラファエロの理想があります。これらの芸術は、ただ現実を写すのではなく、「人間の姿を理想化して表現する」ものでした。現実の人体は歪みや不均衡を抱えていますが、古代の彫像やラファエロの人物像は、それらを調整し、均整のとれた完璧なプロポーションへと仕上げています。

アングルにとって自然は「そのまま模写するもの」ではなく、「美を引き出すための素材」でした。彼は現実を少しずつ修正しながら、より崇高な形をつくり出すことこそが芸術だと考えたのです。弟子たちには「デッサンは芸術の誠実なるものである」と説きながらも、その誠実とは単なる写実ではなく、理想へと昇華させる誠実さを意味していました。

デフォルメの具体例

その姿勢をもっともよく示すのが、《グランド・オダリスク》(1814年、ルーヴル美術館所蔵)です。横たわる裸婦の背中は、解剖学的に見れば明らかに不自然なほど長く引き伸ばされています。批評家たちは「背骨を三本余計に描いた」と揶揄し、当時は大きな酷評を浴びました。

しかしアングルにとって重要だったのは、医学的な正確さではなく、絵画全体のリズムでした。背中のラインを延ばすことで、画面の対角線に沿って流れるような優雅な曲線が生まれ、鑑賞者の視線を滑らかに導く効果があるのです。《グランド・オダリスク》は、アングルが線によって理想美を描き出したことを示す、もっとも象徴的な一作です。

配信元: イロハニアート

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