「縄文」の美を見い出した?記録からアート・デザインへ、江戸~明治の研究者と絵師の歩み

江戸時代の「好古家」たち―描くことは、理解することだった

「縄文」と呼ぶ文化の断片が初めて文献に記録されたのは、江戸時代中期のこと。その頃、日本各地に「好古家(こうこか)」と呼ばれる人々が現れました。彼らは大名や学者、各地の名士たちなどで、絵画や仏像、古書、古銭から、出土した石器や土器まで、時代も用途も異なる多岐にわたる「古いもの」を蒐集していました。

やがて、彼らはグループを結成して自慢の品を見せ合い、その由来や正体を深く考察することを始めました。そして詳細にスケッチし、「好古図譜(こうこずふ)」と呼ばれる図録を編纂したのです。

そこには描き手の主観よりも、「見たままを、ありのままに残そう」とする真摯な姿勢が強く表れています。土器の大きさや欠け、細かな文様までもを正確に描いた記録は、現代へつながる考古資料の第一歩となりました。

南画の大家・谷文晁も「縄文」を描いた

好古図譜の中でも、ひときわ大きな存在感を放つのが、大名・松平定信(1759-1829年)による『集古十種(しゅうこじっしゅ)』です。

江戸時代の中頃、松平定信は学者やお抱え絵師の「谷文晁(たに ぶんちょう)」らと共に、4年もの歳月をかけてこの壮大な図録を作り上げました。

谷文晁ら絵師たちは自らの足で全国各地を歩き回り、あらゆる「古いもの」の実物を、その場でじっくり観察しながら正確に描き写しました。そうしたものを10のグループに分けて、それぞれの大きさや、どこで見つけたかといった特徴を詳しくまとめました。

谷文晁「相州名勝図帖(集古十種のためスケッチの清書)」谷文晁「相州名勝図帖(集古十種のためスケッチの清書)」 出典:ColBase

1800年に最初の巻が出版された後も継続して内容が書き足され、最終的には全85巻にも及ぶ膨大な記録集となりました。

現代の図鑑作りにも通じる図譜は、その後の「古いもの」の研究に大きな役割を果たすことになりました。

石に魅せられた研究者―木内石亭

こうした組織的な活動とは別に、たった一人で驚くような研究を成し遂げたのが、江戸時代きっての「石マニア」として知られる木内石亭(1724-1808年)です。

石亭は子どもの頃から石に魅了され、一生をかけて日本各地を歩き、2000種を超える石を集めました。彼のコレクションは単に珍しい石だけではなく、化石や人の手で作った石器や土器、勾玉なども含まれていました。

石亭はそれらを種類ごとにグループ分けし、正確な絵と共に記録にまとめました。そのひたむきな観察から、「自然の石」と「人の手によって加工された石」があることを日本で初めて唱えました。そうした事から、後に「考古学の先駆者」とも称されるようになります。

木内石亭「雲根志」木内石亭「雲根志」 出典:Wikimedia Commons

江戸時代、「縄文」はこのようにして、好古家たちの手により社会へ紹介されました。しかし、それはまだごく一部の人々だけの単なる「古いもの」への興味にとどまっていました。

明治という時代―縄文が「多様に描かれる」とき

明治時代に入り、西洋の学問が流入し、考古学や人類学という新しい枠組みの中で、「縄文」は日本の原始文化として捉えられるようになりました。

急速な近代化により制度や価値観が大きく変わる中で、「日本とは何か」「日本の起源はどこにあるのか」という問いが、知識人たちの間で強く意識されるようになり、その問いに応える存在として「縄文」が静かに浮上していきました。

ここでも重要になったのは、やはり描くことでした。写真がまだ十分に普及していなかった時代、描写は理解のための最も確かな手段だったのです。

明治時代の研究者や絵師たちは、新しい価値観や科学的な考察を根底に持ちながらも、独自の表現を模索していきます。

エドワード・S・モース ―偉大な発見のスケッチ

明治10年(1877年)、アメリカの動物学者エドワード・S・モース(1838-1925年)は、横浜から新橋へ向かう汽車の車窓から貝塚の層を見つけ、大森貝塚を発見します。

その後東京大学の初代動物学の教授となり、大森貝塚の発掘・調査を進め、そこで発見された「縄文土器」をスケッチとして残しました。スケッチは、後にアメリカで出版されたモースの著書『日本その日その日』の挿絵となりました。

エドワード・S・モース「日本その日その日・第一章」エドワード・S・モース「日本その日その日・第一章」 出典:Wikimedia Commons

彼は日本の庶民の暮らしにも関心を寄せ、その後二度日本を訪れます。各地を歩き、焼き物や様々な生活道具、農具など、多彩な品々をアメリカに持ち帰り、日本に関わる研究を続けました。

モースは日本そのものに興味をもち、その歴史のはじまりである「縄文」を冷静に捉えていました。そこで描いた縄文土器は大きさや文様を記録として残すための描写で、装飾的な誇張や感情的なものは含まれていません。

モース自身は美を語りませんでしたが、そのスケッチからはありのままの「縄文」の造形美が表現されているように感じられます。

松浦武四郎 ―自由に「縄文」を発信する

松浦武四郎(1818-1888年)は、好古家・探検家・絵師・著述家などのいくつもの顔を持ち、北海道の名付け親である人物としても知られています。

教育や地方行政とも関わりを持ちながらも、自分の目で確かめることを重視し、各地を歩き遺物の蒐集に勤しみ、当時未開の地であった蝦夷地(北海道)を調査し、アイヌ文化を研究しました。

松浦武四郎松浦武四郎 出典:Wikimedia Commons

彼は現地で見た土器や石器をスケッチし、形や文様の違いを正確に描き分けました。その絵の特徴は、特定の場所の遺物を単に描写するだけでなく、日本各地の遺物を比較しようとした点にあります。

ある地域では素朴な器形が多く、別の地域では装飾が激しくうねる。その違いを描くことで、縄文文化が全国で単一のものではなく、多様な広がりを持つことを示したのです。

自らも絵を描く一方で絵師に依頼することもあり、親交のあった絵師・河鍋暁斎に、武四郎を釈迦に見立てた「武四郎涅槃図」を描かされるなど、ユニークで遊び心が溢れる一面も見られます。肖像写真の着物を着た武四郎は、首に勾玉や管玉などの考古物をかけるなど、描くだけでなく、多様な表現手段を用いて「縄文」を社会へと紹介した人物でした。

蓑虫山人―放浪する画家のまなざし

蓑虫山人(本名・土岐源吾、1836–1900年)は、美濃の国に生まれ、14歳で家を出て以来、全国を旅しながら絵や書を描いて生きた絵師でした。

「蓑虫」という号は、生活道具一式を背負い、簡素な寝具で野宿も辞さない旅の姿から、自ら名乗ったものです。奇抜で自由、そしてどこかユーモラスなその人柄は、多くの人に愛され、各地に絵日記を残しました。

九州から中国、近畿、関東へと歩き、やがて東北へ。とりわけ青森の風土に強く惹かれ、晩年まで何度もこの地を訪れています。彼はここで縄文土器や土偶と出会い、現地の人々や土地の空気、日々の出来事を描きました。

蓑虫山人『[観漁図]』蓑虫山人『[観漁図]』 出典:九大コレクション

蓑虫山人の絵は、研究や記録のために描かれたものとは、はっきりと方向性が異なります。彼は正確さよりも、その土器や土偶が纏う気配を大切にしています。絵の中の遺物はどこか親しみやすく、自然体で、生活の一場面の中にあるかのように描かれています。

皆さんにお見せできないのは残念ですが、六曲屏風に仕立てられた「陸奥全国古陶之図」は、彼の作品の中でも特に縄文土器や土偶の魅力をあますことなく表現しています。

― 背の高い縄文土器に季節の草花が生けられ、平たい土器には果物が盛られている。口のつぼまった土器には茶道の柄杓らしきものが立てられている。それらは高低差のある大小の棚に置かれた土偶や小型の土器、または石棒といった様々な遺物と共に、リズミカルに配置されている。 ―

その絵は、自身の蒐集したもので博物館を作りたいと願っていた、蓑虫山人の理想的な「縄文」の見せ方であったのかもしれません。

現在、この「陸奥全国古陶之図」は、そこに描かれた縄文土器と共に「青森市中世の館」に展示されています。

蓑虫山人は「縄文」を「心に感じるもの」と捉え、自身の表現として描写したのです。後の時代に「縄文」がアートとして受け入れられるための、大切な伏線となったと言えそうです。

大野雲外―デザインとしての可能性

大野雲外(本名・延太郎、1863-1938年)は、東京帝国大学で学術的な実測図を描く傍ら、図譜や雑誌を通じて、文章と絵の両方を用いて縄文土器を紹介しました。

彼は縄文土器の文様にカラフルな彩色を施した図案を考案し、『模様集』など複数の図案集を発表します。その色鮮やかな図案は装丁などに広く応用されました。それは縄文土器の立体的な特徴を平面にデザインし、さらに様々な現代のデザインへの活用を試みた画期的なものでした。

雲外の描いた土器の絵は、輪郭線がやや強く引かれ、文様の動きが強調されています。
それは「この形の力を感じ取ってほしい」という意志を帯び、土器に秘められた情熱を表わしているようです。

3次元の魅力を2次元の線へと発展させ、さらに他のものへと融合することで、新たな魅力を発揮する。それは「縄文」の可能性を大きく広げたきっかけとなりました。

配信元: イロハニアート

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