
にぼしいわし・伽説(ときどき)いわしによる、日々の「しょぼくれ」をしたためながら、気持ちの「おかたづけ」をするエッセイ「しょぼくれおかたづけ」。
芸人もまた、推される時代になってきた昨今。
そして、推す側の反応がリアルタイムに観測できるSNSの台頭。
画面上に流れ続けるテキストは、誰かからこぼれた、ことばのたった断片に過ぎないとしても、気になるものは気になってしまうし。取捨選択なんて器用なことは、まだ私にはできないし。この距離感は、何年たっても難しいままだけれど。
推したい人と推される人と。そんな愛にあふれた両者がときにすれ違ってしまうのは、その愛が大きく純粋なものだから、なのかもしれない。
そんなちょっぴり壮大なことを、実家でぼんやりと考えた日のお話です。
■第22夜「みかん食べときや」
実家に帰ると「みかん食べときや」と母親がテーブルにみかんをどかんと置いて外出した。ひとり暮らしで一番遠のくものは果物であるということは万国共通であり、母親の口ぶりからも果物を食べていないことがバレている。
世間はまだ春になりきれないのに、植物たちは青春真っただなかと言わんばかりに繁殖行為に精を出す。その攻撃にはほどほど無縁の私ですらも、少しだけ喉に違和感がある。
「ビタミンC」をとっておくほかない状況での目の前のみかん。きれいな橙でこちらを誘惑する。魅力に負けてみかんを手に取りそのずっしりとした重みでもうすでに体が元気になる。皮を剥くとビタミンCの匂いが鼻をかすめてさらに元気になる。白い筋に栄養があるって、誰が言い出したんやろう。スマホを手に取り「みかん 白い筋 栄養 誰」と検索窓に入れようとしたが、私の指が伸びたのはアルファベットが書かれた真っ黒のアイコンだった。
今日もみんなの心の小窓が全開だ。選挙ポスターのようにゴシック体でわかりやすくキャッチーで、私の心をつかんでくる。ゴシック体に立ち止まったらもう最後。先ほどまで顔の横でガッツポーズをしていた手が、肘が伸び指が開き私の頭をつかむ。頭をつかまれた私は体ごと、無理やり小窓から中へと放り込まれる。みんなの心の声が貼られている。四角の画鋲は錆びているのもあるし、新品のものある。読み終わったら、次の声が貼られる。早く外に出たいのに、その声が気になってしかたがなくって、私はもう外に出ることを諦めた。
他人の心の中なんて放っておけばいいのに。放っておいてストレッチのひとつでもすればいいのに。そのほうが自分のためなのに。みかんも食べないといけないのに。自分の目の前にはやらないといけないことが盛りだくさんだ。でも、気になってしまう。
「にぼしいわしさん、ネタの選び方が悪いんよなあ」
私は立ちすくむ。膝が震える。私は、この発言の心を読むことを止められない。
僕や私がもう少し助言すれば、大好きなにぼしいわしがもっともっとよくなります。私はいちばん、あなたがたのことを知っています。昨日先輩と飲みにいったのを知っている。先輩がSNSで写真をあげていたから。僕は学生時代の部活動のエピソードも知ってます。ラジオで言ってたから。今年はM−1優勝めざしているでしょう? だって毎月新ネタライブをしているじゃないですか。だから、あのときのあのネタ選びはよくなかった。もっと頑張らないと。応援しているからこそ言ってるんですよ。応援しているからこそですよ。
そうかそうか。応援してくれてる。でもじゃあなぜ私の心は傷ついているのか。作家でもない奴の助言はほっといた方がいい? でもこういうところにも金言が紛れている? こういう発言を禁止してしまうと、推し活の楽しさを奪ってしまう? いや、嫌なら受け取らなければいいだけなのに、受け取ってしまうこっちが悪いか。確かに。出口を探そう。
でも私の足は全然動かない。次のお気持ちが貼られるのを待ってしまう。なかなか新しいのが貼られない。しかたない、自分の足で探しに行こう。
「にぼしいわし、W優勝してたのw テレビで見なかったから全然知らなかったw」
なんでそんなことを。落ち込む、苦しい、悔しい。頑張りたい。こんなんは見ないほうがいい。さっき歩いていた道に戻ろう。私はストレッチもしないといけないし、みかんも食べないといけない。
こういうの、いったい誰が悪いのだろうか? ファンダム経済? SNSの常用化?
ふらふらと歩いているとまた、急に現れる現代に対しての考察。
「現代のファンダム文化が人類に与える影響は偉大だ。推し活が自分のアイデンティティの一つになってしまっていてメンタルヘルスになんらかの影響を与えている。自分の生活の一部を他人に依存することによって、人生の中で、コントロールが効かないことが起こりうる。自分の意思と反することが起きてしまうと、修正をしようにも他人がやったことだから修正できない。推しに、自分の思うように動いてもらいたいという理想を押し付けてしまう結果になるファンは多い。反対に推されている方は理想を押し付けられるのが苦痛だ。だから反発する。それを受け入れられないファン側。そうやって、推す側も推される側も疲弊してしまう。ファンダム経済によって自分と他人の境界線が曖昧で他人のことをコントロールしようとしてしまうことによる弊害が起きている」
弊害って。推すほうも推されるほうも本当はもっとあたたかい何かに突き動かされてるだけなのでは。信じたくないけど信じてしまいそう。私はまた足を進める。
「SNSによって他人の生活がのぞき見できるようになり、人と自分との比較しがちになった。見える他人の生活は、そのほんのわずか一部分を切り取っているだけなのに、なぜだか生活すべてが充実しているように思える。発信している背景すべてがわかるわけではないのに、目に見える少ない情報を持ち寄ってまるで探偵のように推理して、他人の心情を想像し決めつける人もいる」
はあ、また難しい言論が。本当に? 私がやりたいことは、みんなを笑かすことだけなのに。そして、みんなはその笑いで幸せになりたいだけなのに。
■私は「ちゅるり」と剥かれた本心に触れたい
左手で待たされているみかんが痺れを切らして転がった。
私はスマホをおいて、人の心の小窓を見ることを中断する。
皮が剥かれたあとのちゅるりとしたみかんを見る。みんなも私も、心だけを見ればこんなにもちゅるりとしているはずだ。
応援している人にもっと頑張ってほしいと思うファン。それは「ちゅるり」とすると自分に幸せを与えてくれた推しに、幸せになってほしいから。
SNSのつぶやきに気持ちがもっていかれる芸人。それも「ちゅるり」とすると、笑わせたい人が笑ってくれていないことが、悔しいから。不甲斐ないから。
結局どうしたらいいのかわからない。「自分と他人の境界線をもつ」ということばほど身勝手なことばはない。それができたらみんなやっている。
どうしたら、みんなが幸せになれるんだろう。わからないけれど。
でも「みかん食べときや」は愛ゆえに消費する私自身の心と体に、確実な元気を与えてくれる気がする。ビタミンC、入ってるし。


