地下鉄サリン31年、被害は終わっていない 国際基準から問う日本の支援制度

地下鉄サリン31年、被害は終わっていない 国際基準から問う日本の支援制度

●HRBA(人権に基づくアプローチ)の視点

帰国後、ニューヨーク大学教授で、元国連特別報告者の国際人権法学者フィリップ・オールストン氏に助言を求めた。

とりわけ、社会保障制度と人権の関係に関する話は、被害者支援の制度設計を考えるうえで示唆に富むものであった。

同氏から国連開発計画(UNDP)のHRBAツールキットや、EUのHRBAツールボックスの一読をすすめられた。

そこでは「人権に基づくアプローチ」は、政策や制度設計に人権原則を組み込む枠組みとして整理されている。その核心は三点に要約できる。

1)参加(Participation)
当事者は善意で配慮される存在ではなく、政策形成に関与する主体である。

2)説明責任(Accountability)
制度は、誰を救い、誰を救えていないのかを検証可能にしなければならない。

3)非差別(Non-discrimination)
象徴化されやすい層のみが代表とならず、脆弱な立場にある人々の声が排除されない制度設計が求められる。

また、国際人権法、とりわけ健康への権利分野における世界的研究者で、国連特別報告者をつとめたエセックス大学教授のポール・ハント氏は「被害者もまた権利主体であり、国家および公的機関は義務主体である」と指摘し、共著論文「健康への権利は、国際的な公衆衛生の基盤をなす」を紹介した。

論文によると健康への権利は、単に医療サービスを受ける機会が存在することのみを意味するものではない。

国連の一般的意見第14号などで整理されているように、利用可能性、アクセス可能性、受容可能性、質(AAAQ)という基準で評価される。

さらに当事者の意味ある参加(participation)および国家の説明責任(accountability)は、その核心的要素と位置づけられ、単なる政策上の指針ではなく、国際法上の義務の具体化として理解されている。

さらに、健康への権利は漸進的実現が認められる一方で、非差別や参加機会の確保などについては即時的義務が伴うと解されている。したがって、単発的措置のみで義務が完結するわけではなく、継続的な検証と制度的改善が求められる構造を持つ。

この観点からすれば、化学兵器被害のように長期的影響が想定される事案においては、給付の有無という一点ではなく、制度が時間の経過に適応し続けているかどうか、そして当事者の参加が実質的に保障されているかが問われることになる。

●日本の制度との比較

これらの国際的整理を踏まえたとき、日本の制度はどのように位置づけられるだろうか。日本の給付金制度は一定の救済を提供してきたことは評価できる。

しかし、その制度設計が長期的な健康影響と当事者参加を十分に制度化しているかどうかについては、なお検討の余地がある。

●沈黙は構造的に生まれる可能性がある

事件や後遺症について語ることは、当事者にとって強い心理的負担を伴う場合がある。さらに、その語りが制度改善につながる見通しが乏しければ、発言への動機は弱まる。

被害を公にすることで誤解や不利益を受けるのではないかという不安もある。

報道では、後遺症を抱える当事者が紹介されることはある。しかし、その語りが制度設計や被害者参加の枠組みにどのように反映されたかは、十分に検証されてきたとは言い難い。

時間の経過とともに語られなくなる被害もある。「後遺症はない」と強く否定する人々。転居し、記憶から距離を取る人々。忘れることが回復である場合もある。

しかし、参加の機会そのものが制度上十分に保障されていないとすれば、それは別の問題を提起する。

沈黙は無関心を意味しない。参加の制度が弱いとき、沈黙は構造的に生まれる可能性があることを忘れてはならない。

●未来に向けて制度をいかに成熟させるか

私はサリンが撒かれた車両に乗り合わせ、生き延びた。当事者としての経験は私的なものである。

しかし、ここで問いたいのは個人の救済の程度ではない。被害者参加が制度思想として組み込まれているかどうかである。

30年を経た今、日本の支援制度を国際人権基準の視点から再検討する時期に来ているのではないだろうか。

問われているのは過去の責任の追及ではない。未来に向けて制度をいかに成熟させるかである。

具体的には、(1)長期影響を前提とした継続的フォローの仕組み、(2)当事者参加の常設枠、(3)意思決定過程の記録と公開──この3点を制度として点検することから始められると思う。

●参考資料

・国連開発計画の国際人権法(HRBA)ツールキット(英文)

・EUの国際人権法(HRBA)ツールボックス(英文)

・論文「健康への権利は、国際的な公衆衛生の基盤をなす」(“The right to health supports global public health”), Carmel Williams, Alison Blaiklock, Paul Hunt, 2021

【著者略歴】阪原淳(さかはら・あつし)
初長編監督作品のドキュメンタリー映画「AGANAI:地下鉄サリン事件と私」(オンライン配信中)はEIDF(EBS International Documentary Festival)にてグランプリを受賞。現在は大阪公立大学の教え子と言語の構造理解を通じて「本が読めても内容が頭に入らない人」や「語彙や文法の知識はあるのに英語や日本語が使えない人」を支援する学習プラットフォーム「ロジグリッシュ」を創業し、CEOを務める。

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