
2022年に吉本新喜劇のゼネラルマネージャー(GM)に就任した間寛平。1969年に吉本新喜劇に入団し、現在も看板スターとして活躍する誰もが知る吉本のレジェンドだ。GM就任当時、寛平の目には甘えがあるように見えたという新喜劇。4年の改革でどう変わったのか。寛平が若手だった当時の競争も振り返りながら、新喜劇の今とこれから、そして、「あと数年やと思います」という、自身の引き際への考えまで多くを語ってもらった。
間寛平(はざまかんぺい)
吉本新喜劇での主な略歴…1969年、19歳で入団し、新喜劇の若手座員の中でも体を張ったギャグと運動神経を生かした芸風で頭角を現す。「アヘアヘ」「かい〜の」などが人気となり、1974年、座長に昇格。1989年、東京進出で退団するも、新喜劇への出演は継続。2009年〜2011年、アースマラソン挑戦のため長期離脱し、帰国後、新喜劇の舞台へ復帰。2022年、新設のGMに就任。
■「これをやってれば大丈夫や」からの脱却、新喜劇に生まれた「ええ競争意識」
――寛平さんが2022年に吉本新喜劇のGMに就任されて4年。若手の抜てきやセカンドシアターの立ち上げなどの改革を行ってきました。今、新喜劇の雰囲気はどう変わってきていますか?
ええ競争意識が生まれて、ええ雰囲気になってますよ。今まで「上手くなりたい」「人気者になりたい」っていう当たり前の気持ちが、みんなあまりなかったんやろね。それで去年、5年ぶりに「金の卵オーディション12個目」を開催したんですよ(12回目の新人座員募集オーディション)。その子らが入ってきて、頑張ってどんどんネタ作って、セカンドシアーでネタバトルをやり出すから、5、6年目の中堅ぐらいまでが「やばいな」って焦り出してね。これがすっごい、ええ影響やなと思うてます。
新喜劇で数年やってれば、台本でちょっと役ももらえてきて、近所の人にも「新喜劇座員や」と言うてもらえるようになるんです。テレビにも映って、「これをやってれば大丈夫や」って、みんな満足してたんちゃうかな。そこに下の子らが来たから慌てだして。
――寛平さんの若手時代、70年代、80年代は違いましたか?
僕らのときは、座が3つあったんですよ。劇場がなんば花月、うめだ花月、京都花月って3つあったから、座も3つ作られて、座が入れ替わりながら3つの劇場を回ってたんです。僕も24歳で座長になって、「あそこの座には絶対負けへんで」っていう気持ちで戦うてましたわ。
でね、なんば花月が一番格上。正月に、なんばに出られるのは一番人気の座なんですよ。色物さん(新喜劇の前に漫才やコント、漫談などを披露する人)はやすきよさん(横山やすし、西川きよし)、三枝さん(桂三枝、今の文枝)、今三覚さん…この辺のスターが出るんですよ。ほんでうめだ、京都とちょっと落ちていくんです。
僕らも正月のなんばに出たいから頑張ったけど、どうしてもうめだになってまうんです。なんばは岡八郎さん、花紀京さんいうトップスターが張ってましたね。そういう座の戦いやったから。今は大所帯の一つの座になって、安心感が生まれてたんやろね。
■ラオウ役がMr.オクレ!? 「北斗の拳」ファンで埋まったコラボ公演
――昨年12月には「北斗の拳」とのコラボレーション公演も行って、大盛況でした。
あれもなかなか大変でしたけど、ようできたと思います。お客さんもいっぱい入って。だけど、お客さんのほとんどが「北斗の拳」ファンで、新喜劇ファンやない(笑)。「北斗の拳」ファンが見に来て、ケンシロウ役のアキ(水玉れっぷう隊)にぶっ飛んで、「ラオウ誰や!? オクレ(Mr.オクレ)かい!」って(笑)。オチもよかったし、第2弾もできたらやりたいなと思います。いろんなとこを巻き込んで、コラボをしていくのも面白いでしょ。いろんな人に新喜劇を見てほしいですわ。

――吉本新喜劇は大阪では当たり前のものでも、関東の方では「知ってるけど、中身はよく分からない」という人がほとんどだと思います。
やっぱり知らんでしょうね。新喜劇は大阪の文化。せやけど、見れば絶対「オモロイ!」ってなるからね。だから初めて見る人に、一度見ただけで掴む新喜劇にしていかなあかんのです。
――3月20日から東京で「寛平GMプロデュース公演『新喜劇出前ツアー2025』」が始まります。関東の人に生の新喜劇を見せるいい機会だと思います。
こっち(関東)の人でも新喜劇を見たい人はぎょうさんおるんです。でも大阪行くのはしんどいでしょ。せやから出前で届けてあげます。島田珠代っていう、この子がめちゃくちゃ面白いんですよ。子どもにも人気やし、「誰を見ればいい?」っていうなら、珠代を楽しみにしていれば間違いないです。

■「お約束」はあっても、「変えてはいけない笑い」はない
――寛平さんは、漫才やコントとは違う、新喜劇ならではの魅力とはいうのは、どういうものだと考えますか?
やっぱりみんなで作っていく劇の魅力、台本の魅力やないですか。新喜劇のあの台本、なかなか書かれへんですよ。頭からちゃんと笑いを取って、ネタ振って、ストーリーもあって、最後はオチで終わらせる。テレビとかの台本とはちょっと違いますね。本書きの人もすごい勉強してますわ。ただ、僕がGMになったときは、台本もイマイチやった。パッと読んで、「これはあかんわ」って。だから「ちゃんと書け」言うて。
本書きの人も、昔はそれで一戸建て建てるくらい稼いでたんです。でも今はみんな、「お金がない、お金がない」言うて。本書きも15、16人に増えてるし、ある程度にまとめたらあとは座長任せみたいなね。それはあかん。だから僕は、「ちゃんと本を書けるようになって、ほんで家も建てれるようにならんと。会社にそれを言えるくらいにならんとあかんぞ」言うてます。
――本書きの人によって笑いの出し方は違うと思いますが、その中でも変えてはいけない新喜劇の笑いとはどういうものですか?
変えてはいけないものはないですよ。
――ないんですか?
ないですよ。笑いを変えていくいうより、笑いをどう使っていくかかもしれんです。作家は新喜劇の中も座員のことも分かってるから、合ってる笑いだったら変えてもええし、そうでないなら笑いを使うてな、って。
――その中で観客が求めてる「お約束の笑い」などを入れていく?
そこがまたちょっと難しい。大阪やと毎週土曜にテレビで流れるんですよ。そこで同じ人間が出て、毎回同じギャグやってたら、「また今週もや」って。月4回同じ流れを見たら絶対飽きる。せやから「ちょっと違う方法ないか」って注意してます。変えてもええのに、本書きが座員に甘えてるとそうなってしまうんです。
――新喜劇は「変わらない面白さ」だと思っていましたが、違うんですね。
僕らの時代みたいに1カ月に一度だったらそれでええけど、毎週同じもんは見れんでしょ。僕も杖を持って舞台でめちゃくちゃに暴れて、それで「あ、寛平ちゃんが帰ってきたわ!」っていう流れをずっとやってたんですけど、今は犬を連れて出たり、鶏を連れて出てね、「ええ卵産めよ」とか言って遊んだり。「寛平ちゃんが帰ってきた」は変えてないけど、なにをやるかは変えているんですわ。
■新喜劇は大阪人の「宝」
――BSよしもとでは「BSよしもとpresent's よしもと新喜劇」が局で一番の視聴率を取っています。大阪の人にとって、吉本新喜劇はどういう存在なのでしょう?
宝やと思いますよ、大阪の宝。新喜劇の中に漫才もコントもあるから、大阪の人は吉本を見て育つんです。面白いのが、テレビで売れっ子の若手が新喜劇に出てもウケへんですよ。最初はワーってなるけど、漫才が始まるとだんだん静かになっていく。ドカンとウケるのはやっぱりベテラン。まるむし商店なんか知らんでしょ?
でも、彼らはほんまに面白い。出ていったときに歓声は出んけど、徐々に笑いをどんどん取っていく。実力がもうすごいですよ。テレビの知名度じゃどうにもならないのが新喜劇で、村上ショージも大爆笑取りますからね。一番ウケてると思いますわ。売れっ子が出てバーンとやったあとでも、村上ショージは普通に出てって、普通に笑いドーンと取って、普通に帰ってきます。ずっと板の上でやってる人間は強いね。さんまちゃんも、「寛平兄やんすごいなあ」って、よう言うてくれてます。
――寛平さんにとっては、吉本新喜劇はどんな存在でしょう?
存在いうより、人生です。ほんま、こうやって生きてるのは吉本と新喜劇のおかげやと思います。昔は悪い子とかええ加減なやつは「吉本入れるぞ!」って言われてて、僕もよう言われたもん。「お前、そんな悪いことしとったら吉本放り込むぞ!」って。考えたら吉本に失礼な話やけど(笑)。

■「アホのパワーってすごいね」吉本と新喜劇への感謝
――寛平さんのお笑い人生は、ほぼ新喜劇から始まっていますよね。
新喜劇が今年67年目で、僕はもう56年前からいてますね。入ったときの社長から「あいつを出すな、舞台が汚れる」言われてましたから(笑)。でも人気が出てきたら「あいつオモロイな、売り出せ」って。ほんでいきなり座長になりましたわ。

――新喜劇をやられていてよかったと思うのはどんなことですか?
新喜劇いうより、吉本に入って、やね。生きられてるのがよかったし、大変な目に遭った人生やけども、楽しい人生を送らせてもらえてるとも思います。さっき言ったみたいに中卒の子、アホな子が放り込まれるような会社でしたけど、僕は入れて感謝してます。今やったら入りたくても入れん。今、芸人も大卒たくさんいるもんね。
僕にも京大卒のマネージャーが付いたりもして。でも、京大卒の子も吉本におるとどんどんアホになっていくんです。高卒の僕と対等になっていって、あれ、不思議やねんな。アホのパワーってすごいね。頭良すぎてアホなことが考えられへんっていう子やったのに、どんどんアホに染まって、アホなことばかり考えるようになるから。
■76歳、考える引退「次のええ座長が出てきてくれたタイミングが」
――寛平さんは現在76歳です。明石家さんまさんは60歳で引退すると言っていた時期がありますが、寛平さんはご自身がお笑いから引退することを考えたことはありますか?
一時は思ってました。(自分の)50周年のとき、「ちょうどええな」と思ってたんですよ。自分の中でやりたいこともあったし、そっちにちょっと向かっていこう思うて。でも、それからGMを頼まれたから、今一生懸命やってます。でも、僕にも限界があるし、あと何年かやなと思います。若手がちゃんと育って、次のええ座長が出てきてくれたタイミングが、ほんまにちょうどええやろなと思います。

まだ元気なうちに、新喜劇を全国の人に知ってもらう。座員を知ってもらう。珠代なんか、ほんまにおもろいから、知ってもらえば絶対に人気が出る。そんで、どこに行っても「新喜劇が来たで!」って、お客さんがパンパンに入るように。そこまでできたらほんまに満足ですわ。
――最後に、寛平さんの新喜劇56年の中で一番好きな持ちギャグを教えてください。
一番? たくさんあるもん(笑)。けど、一番最初に作った「負けそう…」いうギャグがやっぱり一番好きやね。新喜劇に入った頃、木村進っていう相方がいたんですよ。僕が20歳で、あいつが19歳ぐらいやったかな。「俺らで新喜劇を盛り上げようぜ」言うて一緒にやってたんやけど、あいつはもう、僕とは育ちが違ったんです。
進の親父さんは九州で有名な博多淡海さんいう人で、あいつはその3代目。家出して吉本に来たんやけど、なんせ「おぎゃあ」と生まれたときから舞台の袖で育ってるような男やから。旅回りの一座でずっと鍛えられてきた本物ですよ。それに比べて僕は芝居なんて何もできへんでしょ。舞台の上でなんぼ頑張っても、あいつには勝てんのですわ。劇中ではいつも、進にボコボコにされる役やったんです。
舞台の上で、衣装がボロボロになるまでボコボコにされて、挙句の果てにグッタグタになるまで引きずり回されて。その最後に、一言「負けそう…」。それにお客さんがドーンと受けて。「お前、もう完全に負けとるやないか!」「やられとるやん!」いうてツッコミが入る。すでに負けてるのに、これから「負けそう」言うのがめちゃくちゃ受けたんですよ。
これが僕の原点やね。
◆取材・文=鈴木康道

