フェルメールの贋作。ハン・ファン・ミーゲレンの『最後の晩餐』(1939年), Public domain, via Wikimedia Commons.
かつての時代、具体的には中世やルネサンス(14〜17世紀ごろのヨーロッパで花開いた文化・芸術の革新期)の頃まで、「コピー」は技術を磨くための正規の手段であり、場合によっては最高の賛辞でもありました。師匠の作品を完璧に再現できることが、弟子の腕前の証明だったのです。
現代の感覚でいえば、「オリジナリティがない」と批判されそうな行為が、当時は「才能の証明」として評価されていた。この認識のギャップこそが、美術史における「コピー」問題の核心です。
この記事では、美術史を通じて「コピー」がどのように位置づけられてきたのかを追いながら、「オリジナリティ」や「唯一性」という概念がいつ、どのようにして生まれたのかを探っていきます。あわせて、贋作(がんさく—他の作家の作品だと偽って売られる偽物のこと)の歴史も振り返りながら、「本物とは何か」という問いについて考えてみましょう。
古代ローマから中世まで——コピーは「敬意の表現」だった
『ラオコーン』, 多くの芸術家がコピーや模写を制作した, Public domain, via Wikimedia Commons.
美術における「コピー」の歴史は、実に古く、古代ローマ時代にまで遡ります。当時のローマ人の彫刻家たちは、ギリシャ彫刻の複製品を大量に制作していました。
紀元1〜2世紀ごろのローマでは、職人たちが5世紀分にもわたるギリシャ美術のコピーを作り、それが高値で取引されていたといいます。重要なのは、こうした複製品が「詐欺目的」ではなかったという点です。買い手も売り手も、それがコピーだと分かったうえで取引していたのです。
このことが示すのは、当時の美術の価値観が現代とはまったく異なっていたということです。古典期の美術は、歴史的な記録、宗教的なインスピレーション、あるいは単純な審美的享受のために作られていました。「誰が作ったか」という作者の個性は、今日ほど重要ではありませんでした。ルネサンス以前の時代においても「作家が制作プロセスのすべてを自分の手でこなすことへの需要はなかった」のです。
中世のヨーロッパではさらにこの傾向が強く、美術はギルド(職人同士の組合)によって管理されていました。絵師や彫刻師は「クラフトマン(職人)」として同じカテゴリに分類され、靴職人や鍛冶屋と同列に扱われていました。個人の個性や創造性よりも、技術の習得と継承が最優先されていたのです。
ルネサンスの工房制度——「師匠の手」が入った作品とは?
ドゥオーモ工房、内部, Public domain, via Wikimedia Commons.
ルネサンス期に入ると、美術の生産はボッテガ(工房)という組織を中心に回っていました。ボッテガは、一人の優れた師匠(マエストロ)のもとに複数の弟子や助手が集まった大きな作業場で、今でいえばデザイン事務所やスタジオのような場所です。
ワールドヒストリー百科事典によれば、こうした工房は単なる制作の場であるだけでなく、次世代の芸術家を育てる「学校」でもありました。
弟子たちの訓練は、まず師匠のデッサンを模写することから始まりました。彼らは何年もかけて師匠のスタイルを徹底的に身に着け、最終的には師匠の作品と区別がつかないレベルに達することが求められました。
そしてここが重要な点なのですが、完成した作品は「師匠の名義」で売られていました。弟子が大部分を描いた絵でも、師匠がサインして納品することは普通の慣行だったのです。
代表的な例が、フランドルの巨匠ピーテル・パウル・ルーベンス(1577-1640年)の工房です。ルーベンスはアントワープに高度に組織された工房を持っており、彼の最も有名な弟子の一人がアンソニー・ヴァン・ダイク(1599-1641年)でした。
ルーベンスは通常、構図の初期スケッチと顔や手の部分のみを自ら描き、残りの大部分を助手たちに任せていたそうです。ルーベンスがティツィアーノ(c.1487-1576年)の作品を模写し、次いでヴァン・ダイクがルーベンスから模写するという連鎖は、当時の美術教育そのものでした。
また、ミケランジェロの話もとても興味深いです。後に《ダヴィデ》(1501-04)や《ピエタ》(1498-99)などの傑作を生み出す天才も、21歳の頃には経済的に困窮しており、ひとつの「いかさま」に手を染めていました。
1496年のことです。ミケランジェロは画商の勧めもあり、自作のキューピッドの大理石像を制作すると、それを酸性の土に埋めて人工的に古く見せ、ローマの古美術品として売りに出したのです。この彫刻《眠れるエロス》(1496)は、最終的に枢機卿ラッファエレ・リアーリオの手に渡りましたが、まもなく偽物だと発覚します。
しかし驚くべきことに、枢機卿はミケランジェロを責めるどころか、その才能に感服し、彼の最初のローマ時代のパトロンとなりました。
「ローマ彫刻を模倣できることは、ルネサンスにおいて能力の証明だった。工房制度の中では、師匠のスタイルを模倣することが仕事だった」のです。コピーは欺瞞ではなく、技術の証明だったわけです。
