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画家との恋、そして薬物の過剰摂取。『オフィーリア』のモデルの栄光と影

③ロセッティとエリザベス

<オフィーリア>の後、エリザベスはロセッティ専属のモデルとなった。

父親の影響でイタリア文学に傾倒していたロセッティは、エリザベスにイタリアの詩人ダンテの作品に登場する「永遠の恋人」ベアトリーチェのイメージを重ね、深く心酔した。

エリザベスもまた、ロセッティから詩作や絵の指導を受け、才能を開花させていく。

エリザベス・シダル<「サー・パトリック・スペンス」より淑女たちの哀歌>エリザベス・シダル<「サー・パトリック・スペンス」より淑女たちの哀歌>、1856年、テート・ブリテン(パブリックドメイン), Public domain, via Wikimedia Commons.

この水彩画<「サー・パトリック・スペンス」より淑女たちの哀歌>は、ロセッティやその仲間の間で流行していたスコットランドのバラッドに取材したもので、スペンスとスコットランド王の帰還を海辺で待ちわびる女性たちの姿が繊細な色遣いで描き出されている。

文学という主題や中世風のやや硬質な描き方からは、ロセッティらラファエル前派の影響を感じられる。一方で、ただ待つことしかできない女性たちの心情の襞に目を向けた点にエリザベスの独自性がうかがえる。

そんな彼女の才能をラスキンは評価し、年間150ポンドもの支援を申し出ている。1857年のラファエル前派展には、エリザベスの作品も出品された。

そして、師でもあるロセッティとは、創作を通じて互いに心を通わせあい、特別な関係となっていく。この頃が、エリザベスにとって最も充実した時期であったのかもしれない。

④結婚、そして……

ロセッティと恋仲となり、婚約を交わしたとはいえ、なかなか結婚には至らなかった。エリザベスが労働者階級出身であることを理由に、ロセッティの両親が反対していたのだ。

半同棲生活を続けながら、エリザベスは詩や水彩画を描いていたが、不安は拭えなかった。1854年頃からは体調を崩しがちで転地療養を繰り返すようにもなる。

しかも1856年、エリザベスが不在の間に、ロセッティの近くには新たな女性が現れた。ファニー・コンファースである。

ダンテ・ガブリエル・ロセッティ、<ボッカ・バチアータ>ダンテ・ガブリエル・ロセッティ、<ボッカ・バチアータ>、1859年、ボストン美術館, Public domain, via Wikimedia Commons.

豊かな金髪と、肉感的な唇、豊満な体つきのファニーは、ロセッティの新たな霊感源となる。一方、自分にはない魅力を持ったライバルに、エリザベスは激しい嫉妬を抱いた。心身は衰弱し、創作も次第に手がつかなくなっていった。

さすがに見かねたロセッティは、1860年、ついにエリザベスと正式に結婚する。長く待ち望んでいた瞬間に安堵したエリザベスは、どうにか小康状態を取り戻し、子供を妊娠する。

しかし、ロセッティはファニーをはじめとする女性たちとの関係を断つことはなかった。それは、どれほどエリザベスを打ちのめしたことだろう。せっかく授かった子供も、1861年に流産してしまう。

絶望したエリザベスは、心身の安定を求めて阿片チンキに手を伸ばし、服用量も次第に増えていった。ついに1862年2月10日、過剰服用が原因で、エリザベスは31歳の若さでこの世を去った。

配信元: イロハニアート

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