跡取り息子は、草花を摘んでいた
麻生さんは茨城県水戸市生まれ。 祖父が創業した建設会社の長男として、家族の大きな期待を背負って育った。「声が大きくてガキ大将みたいな子」が理想だったが、実際の麻生さんは近所で草花を摘んで歩き、友達はクマのぬいぐるみだけという子供だった。
その「ズレ」に、幼いころから気づいていたという。 「気づいていても変えられないというか、変えないっていうところはありましたね。いつか何かその期待が解けるのか、僕が期待に応えられるようになるのか、もうちょっと時間が欲しいみたいな、多分気持ちがあったんじゃないかなっていう気がしています」 食べ物の好き嫌いも相当なものだった。「ピーマンが嫌い」「人参が苦手」といったレベルではない。
「『食べない』みたいな感じだったので。鶏肉は食べる、卵は食べる、きゅうりとジャガイモは好き、みたいな。あとは別にいらないみたいな」
そんな麻生少年の食の扉を開いたのは、祖母だった。買い物から一緒に出かけ、台所に立つところを見せ、手伝わせてから食べさせる。嫌いな食材も、祖母が揚げてくれた天ぷらなら一応口に入れることができた。「自分のためにやってくれているんだ」と感じると、不思議と食べる気になったのだという。
初めて自分で料理を作ったのは小学3年生のとき。母の帰りが遅くなった夜、お腹が空いて台所に立ち、祖母のチャーハンを真似することにした。そこで麻生さんは、嫌いなはずのピーマンを自分で包丁で刻み始めた。
「ピーマン嫌いだったら入れなくてもいいんだけど、ちゃんと自分で刻んで、めちゃくちゃ細かく刻んで、『これぐらい細かく刻めば大丈夫だろう』とか思いながら刻んでやるわけですよ」
フライパンの持ち方を間違えて軽い火傷もしたが、帰宅した母は怒らなかった。「できることが多いのはいいことだ」と言いながら、使いやすいサイズのフライパンをその日のうちに買ってくれた。「これでやりなさい」と渡されたその日から、麻生さんは台所を自分の場所にしていく。
「壮大な実験」として始めた、新島の民宿
19歳で父が他界し、跡取りとして建設会社に入社した麻生さんは、30歳を前に「自分は本当にこれをやりたいのか」と自問して退社する。食への関心はある。でも経験はない。そんな宙ぶらりんの時期に、ひょんなことから新島への縁が生まれた。
知人を通じて出会った「東京R不動産」ディレクターの林厚美さんに「新島という島に恋をしているんだけど、何か一緒にやらないか」と誘われ、「興味があるともないとも言えない」と答えたら「じゃあ行ってみよう」となった。翌週には冬の新島に渡っていた。
冬の新島の海は暗く荒れていた。麻生さん自身の言葉を借りれば「落ちたらまずいな」という色で、風も強く、島の人はほとんど外に出ない。それでも麻生さんは、ここでやってみることに、一つの意味を見出した。
「通りすがりでは人は来ないじゃないですか、島だから。何かをやって、人に伝わって、それが皆さんに受け入れてもらえたら、自分の考えがさほど悪いセンスではないということで進んでいこう。でも、もし人が来なくてダメだったら、ちょっと人生の方向を考えよう、みたいなタイミングだったので。壮大な実験と捉えて、やってみようかなと」
見つかった物件が民宿だった。料理経験のほとんどない人間が、朝・昼・晩とキッチンに立ち続ける生活が始まる。宿には1泊目の客も2泊目の客も3泊目の客もいる。ヨーロッパからの旅行者にはビーガンやベジタリアンもいて、島の外ではそういった食事が提供されないため、「じゃあ全部うちで作る」という話になっていった。
「金目鯛の煮付けをいくつかの鍋でやってる脇で、アーモンドミルクと豆乳とかでパンケーキを焼くみたいなことをずっとしていて。本当にやれる限りのことはそこでやったという感じはします」
流通の限られた島で、手元にあるものだけで何とかする日々。そのころ頼りにしたのがクックパッドだった。あるもので検索しては今夜の一品を探した。「本当にありがたかった」と今も言う。その民宿は、フレンチトーストが名物の人気宿となった。「料理家としてお仕事始める上での、いい修行でしたね」と麻生さんは振り返る。ひょんなことから飛び込んだ島の台所が、料理家・麻生要一郎の、もう一つの原点だった。

