「玉(たま)」で装う
縄文時代の「装身具」の中で、特に多く見られるのが「玉(たま)」です。今でいうネックレスにあたります。石などを材料に紐を通すための孔を開け、1個から数個、あるいは小さな玉をたくさん連ねて作られました。
亀ヶ岡石器時代遺跡「土坑墓出土玉類」出典:JOMON ARCHIVES(つがる市教育委員会撮影)筆者にて一部改変
材料は石が圧倒的に多く、そのほか貝殻、動物の歯・牙・骨、粘土を焼いた土製、木材や木の実なども使われました。精巧な細工や、漆で鮮やかな赤を施したものもありました。
当初は身近な材料だけで作られていましたが、やがて特定の地域でしか採取できない貴重な石を交易によって手に入れ、「玉」を作るようになります。
それらは現代のペンダントトップにあたる「垂飾(すいしょく)」として、連なる「玉」の中央に据えられました。大きく美しい「翡翠(ひすい)」などを吊り下げることで、象徴(シンボル)としての意味を強めたのです。「翡翠」のほか、黄金色の輝きを持つ「琥珀(こはく)」や、翡翠に似た緑色で加工しやすい「滑石(かっせき)」なども愛用されました。
朝日山(1)遺跡「ヒスイ製玉類」 出典:JOMON ARCHIVES(青森県埋蔵文化財調査センター所蔵、田中義道撮影)
また「垂飾」にはしばしば「勾玉」が用いられました。「勾玉」は「曲玉」とも書き、その多くは石で作られました。形の由来については、動物の牙に孔を開けた「牙玉(きばたま)」から発展したという説や、胎児や月の形を模したとする説などがあります。
このユニークな造形は、世界の装飾史の中でも類例がほとんどなく、日本独自の美意識が凝縮されたものだと言われています。
「翡翠」に潜む魅力
数ある美しい石の中で、縄文人が最も心酔したのが「翡翠」です。当時の「翡翠」は、現代のダイヤモンドを凌駕するほど稀少であったと考えられ、交易によって列島各地へと広がりました。
南は九州から北は北海道まで、大規模な集落跡からは一、二点、多くても数点が見つかりますが、小さな集落から出土することは殆どありません。まさに「選ばれし者の石」だったのです。
ヒスイ製大珠、他 出典:Sanmaru Search(三内丸山遺跡センター撮影)
「翡翠」は光にかざすと、内包された色彩がきらめく石。縄文人はその神秘的な輝きに、霊的な力や特別な意味を見出していたのでしょう。それゆえに、「翡翠」は集落の権威を示すステータスシンボルでもありました。
中でも「大珠(たいしゅ)」と呼ばれる5cmを超える大ぶりの「翡翠」は、地域の中核をなす巨大なムラだけが所有を許された、極めて特別な品でした。
「翡翠」の産地は全国に10か所ほどありますが、中でも新潟県の「糸魚川産の翡翠」は最高級の質を誇り、縄文社会に広くその名が知れ渡っていたと考えられています。
糸魚川周辺は上質な「翡翠」の産地であると同時に、極めて高度な加工技術を有していました。「翡翠」は非常に硬く、加工が困難な石です。糸魚川周辺の遺跡からは、原石や加工品のほか、製作途中の未完成品も多く見つかっており、ここが一大生産拠点であったことを物語っています。
また、中には一目で特定の集落で作られたとわかる、先端が尖った独特のデザインを持つものもあります。単なる「糸魚川産」という枠を超え、その集落が手がけた「ブランド品」のような付加価値を持つ「翡翠」も存在していたようです。
