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いつの時代もおしゃれは本能?縄文人を虜にした宝石から、人生を刻む「耳飾り」まで

耳飾りの変遷ー「玦(けつ)」から「ピアス」へ

縄文時代の耳飾りには、大きく分けて二つの潮流があります。縄文時代の前期に出現した「玦状(けつじょう)」タイプと、中期以降に主流となった「耳栓(じせん)」タイプです。

三内丸山遺跡「装身具」三内丸山遺跡「装身具」 出典:JOMON ARCHIVES(三内丸山遺跡センター所蔵、田中義道撮影)筆者にて一部改変

「玦状耳飾」は、円環の一部に切れ目を入れた形をしており、その切れ目を耳たぶに開けた孔に差し込んで装着したと考えられています。多くは石で作られ、その形状が古代中国の玉「玦」に似ていることからそう名付けられました。

主に墓から発見されるこの耳飾りは、男女を問わず身に付けていたようですが、出土数は決して多くありません。当時、これを持てたのは限られた「特別な人」だけだったと推測されています。

一方でその後に出現した「耳栓」タイプの耳飾りは、殆どが粘土を焼いた土製品で、人々に広く愛用されました。これらは一般に「土製耳飾」と呼ばれます。

「透かし彫り土製耳飾り」「透かし彫り土製耳飾り」 出典:町田デジタルミュージアム

「土製耳飾」は、耳たぶに開けた孔にピアスのようにはめこんで装着するもので、基本は円形です。中央に孔が開くものや、繊細な透かし彫りが施されたものなど、芸術性の高い意匠が数多く見られます。

興味深いのは、その多岐にわたるサイズ展開です。1cm超の小さなものから、8cmを超える大きなものまで存在します。人々は幼少期に小さなサイズを装着し、成人式などの「通過儀礼(イニシエーション)」を迎えるたびに、より大きなサイズへと付け替えていったと考えられています。

また、中には10cm近くに達する、到底耳たぶには収まりきらないサイズも存在します。それらは日常の装身具という枠を超え、何らかの特別な儀式に用いられた道具であったようです。

1100年の沈黙を経てー「装う」本能のゆくえ

縄文時代に花開いた「玉」の文化は、弥生時代になると大陸由来のガラスなどを取り入れ、より精緻で色鮮やかな姿へと進化を遂げます。古墳時代には水晶や瑪瑙などの石や金を使った勾玉が作られるなど、「装身具」の彩りはさらに豊かさを増していきました。

このように「玉」の姿形は時代ごとに少しずつ変化しながら、その時々の人々を魅了してきました。そんな中で変わることなく愛されたのが「翡翠」でした。その神秘的な美しさや特別な意味は、時代を超えて人々の心を捉え続けたのです。

しかし一方で、「耳飾り」は弥生時代に入るとその姿を消してしまいます。古墳時代には大陸から新たな装飾品として持ち込まれましたが、そこには縄文時代の「耳飾り」の意味は宿っていませんでした。

そして不思議なことに、古墳時代が終わると「装身具」全般は姿を消していきます。7世紀前後から玉が徐々に姿を消し、残されたのは実用性が重視された櫛や簪(かんざし)くらいでした。

長く時代を超えて愛された「翡翠」さえも、人々から忘れ去られてしまいました。

それから江戸時代末期まで、じつに1100年もの間、日本人が「装身具」を身につけた形跡はほとんど見られなくなります。

安土桃山時代に日本を訪れた宣教師ルイス・フロイスも、著書『ヨーロッパ文化と日本文化』の中で、「日本の女性は一切指輪はつけず、また金、銀で作った装身具も用いない」と驚きをもって記しています。

世界的にも稀なこの「空白期間」の理由は、未だ謎に包まれています。一説には、装身具が担っていた意味や役割が、「着物文化」における生地の紋様や色使いへと取って代わられたから、とも考えられています。

かつて人間の本能として始まり、社会的な意味をまとって発展した「装身具」。長い沈黙を経て再び現れた現代のアクセサリーもまた、単なる「美」を超えて、この時代の何かを映し出しているのかもしれません。

参考資料
『日本の美術2 No.369縄文時代の装身具』土肥隆(至文堂)
『指輪の文化史』浜本隆志(河出書房新社)
『縄文人の装い』北杜市考古資料館
『アクセサリーから見た縄文時代~石製装身具の様相~』五十嵐陸(神奈川県考古学講座資料)

配信元: イロハニアート

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