光を浴びるスターは、同時に値踏みされる存在でもあった
そう考えると、《エトワール》の祝祭性は、急に別の重さを帯びてきます。舞台の中央で踊り子は光を浴びています。けれどその光は、純粋な喝采だけを意味してはいません。見られること、選ばれること、評価されること、そして値踏みされることまで、そのなかには含まれていたはずです。
【部分】エドガー・ドガ《エトワール》1876-77年、オルセー美術館, Public domain, via Wikimedia Commons.
踊り子は拍手の対象であると同時に、強い視線にさらされる存在でもありました。ドガはそれを声高に告発するのではなく、たったひとりの男を舞台袖に置くことで示しています。その静かな描き方こそが、かえって絵の不穏さを深くしています。だからこの作品は、祝祭の絵でありながら、祝祭に酔いきらないのです。
ドガが見ていたのは、夢の舞台ではなく、夢を支える現実だった
ドガのバレエ作品が今も強く人を惹きつけるのは、そこに夢だけが描かれているわけではないからでしょう。彼は踊り子を、ただ優雅な存在としてではなく、稽古し、疲れ、待ち、見られ、働く身体として見ていました。舞台の上のわずかな輝きだけでなく、その前後に横たわる現実ごと見ていたのです。
エドガー・ドガ《エトワール》1876-77年、オルセー美術館, Public domain, via Wikimedia Commons.
彼にとってオペラ座は、理想化された芸術の殿堂ではありませんでした。歌手、音楽家、踊り子、観客、そして舞台裏を行き交うアボネたちまで含めた、欲望と労働の入り混じる人間の世界だったのです。だから《エトワール》の踊り子も、ただ軽やかに舞っているのではなく、どこか張りつめ、ひりつくような孤独をまとって見えます。
