
3月24日に放送された「レジェン堂」(毎週火曜夜10:00-10:55、BSフジ)。今回のゲストは、“トレンディエース”としてパ・リーグの人気を押し上げたレジェンド左腕・阿波野秀幸が登場。MCの徳光和夫と遠藤玲子との軽快なトークの中で少年時代の意外な環境や進路の葛藤、そしてプロ入り後の伝説的な瞬間まで、知られざるエピソードを振り返った。
■グラウンドが消えた中学時代…異色の経験が育てた瞬発力
横浜出身の阿波野は、父親が野球チームのコーチを務めていた影響もあり、幼少期から自然と野球に親しんできた。メインのポジションはピッチャーであったというが、足の速さを生かして内野から外野まで幅広く経験していたという。
しかし中学時代、思わぬ環境の変化に直面する。生徒数の急増によって校舎がプレハブで増築され、グラウンドが大幅に縮小されたのだ。十分な練習環境が確保できず、ランニングやプレハブの隙間を縫って軽いキャッチボールをするのがやっとの状況。思うように野球ができない日々が続いた。
それでも阿波野は腐ることなく、時にはバレー部の練習に参加するなど工夫を重ねる。しかしこの経験で「体の瞬発力はついたと思う」と振り返るなど、結果的にこうした制約を乗り切るための努力が生んだ能力もあったようだ。
■「自信がない」から選んだ進路…それでも光った実力
高校進学を控えた阿波野は、横浜高校や東海大相模といった強豪校ではなく横浜市立桜丘高校を選択。その理由は「そこ(強豪校)に行って甲子園に出れるイメージが沸かない。自信がない」という率直なものだったという。
だがその判断とは裏腹に、阿波野は激戦区・横浜の強豪校相手に互角以上の戦いを見せる。日大藤沢に2-1、横浜商業には1-0と接戦で勝利。ただ「良い試合はするんですけど」と確かな手応えを感じつつも最後には競り負けることが多く、3年生の夏も4回戦で敗退してしまう。プロのスカウトが視察に訪れるほどの投球を見せながらも、高校卒業時点でのドラフト指名には至らなかった。
大学は当初志望していた慶応大学ではなく、亜細亜大学へ進学。ちなみにパンチ佐藤は阿波野と同級生で4年生では主将も務めたが、1年生の頃から「口は達者でしたね」と苦笑する。余計な一言で“全員集合”がかかることもあったというのが、なんともパンチ佐藤らしいエピソードだ。
亜細亜大といえば高校野球の強豪校よりも厳しい練習で知られているほか、先輩との上下関係も厳格。「朝起きて寝るまで、心も体も休まらないくらい」と語るほど厳しい環境だったという。そんな過酷な日々の中でも阿波野は結果を残し続け、大学通算32勝、防御率1.83、282奪三振という圧倒的な成績をマーク。ついにドラフトでは3球団が競合するほどの注目選手として成長を遂げる。
■「まさかここで代えないよね」…伝説の“10.19”が残したもの
1986年のドラフトでは読売ジャイアンツ、横浜大洋ホエールズ、大阪近鉄バファローズが阿波野を1位指名。阿波野自身は在京球団である巨人か大洋を希望していた。
しかし抽選の結果、交渉権を得たのは近鉄。球団からは事前に阿波野を取るという話どころか接触すらなかったこともあり、阿波野は「え?うそ?(確率)3分の2だったのに」と当時の驚きようを振り返る。さらに指名前の段階で球団側から大学側へ挨拶がなかったこともあり、大学の総監督・矢野祐弘氏が激怒したという波乱も。
しかしその10日後には監督から呼ばれ、「大阪に行って勝負してこい」と告げられた阿波野。「大人の世界で何が起きていたのか真相はわかりませんけど」と前置きしたうえで、監督から「ピッチャーの旬は10年間だ。そのうちの2〜3年を社会人で使うのはもったいない」という言葉をもらったことが入団の後押しになったと語る。
開幕直後、1軍で初登板した阿波野は千葉ロッテマリーンズを1点に抑えて2-1で勝利。さらに2戦目の埼玉西武ライオンズ戦は3-0で完封、3戦目の南海ホークス相手にも8-2で完投するなど、ルーキーながら4月だけで3完投勝利を上げた。その年はオールスターまでに9勝を上げて最終的に15勝12敗、防御率2.88という成績でライバルの西崎幸広を抑え、新人王を獲得したのだった。
1988年には仰木彬が近鉄の監督へ就任。この年、後世に語り継がれる伝説の「10.19」を制して日本一に輝くことになる。優勝がかかったダブルヘッダーの第1試合、9回裏ノーアウト1塁という緊迫した場面で阿波野はマウンドに上がった。その起用はいま振り返っても「まさかここで代えないよね」と思うタイミングだったという。結果的に試合は4-3で勝利し、第2試合は引き分け。ギリギリの戦いの末に近鉄は優勝を手にする。
この一戦を通じて、阿波野は“1球の重み”を強く実感。現役引退後、コーチとして指導するなかでも「10.19」の経験は大きな教訓として生き続けていると明かす。
阿波野の野球人生を振り返ってみると、決して順風満帆ではなかった。あえて自信のない道を選んだ高校時代、そして運命に翻弄されたプロ入り。阿波野の歩みは、才能だけでは語りきれないプロ野球選手の本質を静かに物語っていた。

