■父・麿赤兒との動物的なコミュニケーション
「よくグレなかったな」
北野武にそう言われ、大森南朋は苦笑して答えたという。
「あの親父だからしょうがないですよ」(「ファミリーヒストリー」2022年8月15日NHK総合)
大森の父親と言えば、舞踏家であり俳優の麿赤兒だ。唐十郎が主宰する「状況劇場」の看板俳優として活躍していた彼は、次男・南朋が生まれた1972年に舞踏集団・大駱駝艦を旗揚げした。そこからは、稽古場から家に帰ってこなくなった。映画監督となった長男・立嗣は「みなさんが想像する家族という感じはほとんど記憶にない」(同前)と振り返る。
毎月1回、高円寺の喫茶店・トリアノンで父から生活費を受け取るときだけが、家族全員が集まる機会だった。麿は幼い子たちを自分の膝の上に座らせる。そして「強く噛め」と腕を差し出す。ギュッと噛むと「もっと強く」と言う。
ギュギュっと噛むと今度は、麿が子供の後頭部を噛み返すのだ。南朋が帰り道で母に「あれは何だったんだろう?」と聞くと「噛みつきながら子供を育てるライオンと同じだ」と言われた(「徹子の部屋」2025年7月9日テレビ朝日系)。不器用な、まさに動物的なコミュニケーションだ。
■常識や善悪で判断しない、両親の存在
そんな状況だったから、実質的に兄弟を育てたのは母・桃枝だった。彼女もまた、麿に負けず劣らず個性的な人物だった。麿と出会ったのは、新宿の「風月堂」。作家ら自由業の人たちが多く集まる喫茶店だ。そこで彼女は、そのファッションから「ダダ」の愛称で、「女王」と呼ばれる存在だった。
店の常連客だった嵐山光三郎は「ダダは優しくてね、ものすごく魅力的でセクシーでしたね。不良っぽくてアンニュイで気前がよくて雰囲気のあるボス的な女」だったと回想する(「ファミリーヒストリー」前出)。23歳の頃には、「ダダ」というバーも立ち上げ、新宿ではかなり知られた存在だった。映画やドラマの主人公になりそうな人物だ。
自身がそうだったから、いわゆる「不良」にも寛大で、親ならば、そういう子と付き合うのはやめろと言いそうなところ、むしろ家に呼びなさいというような母だった。立嗣は「親父もお袋も常識みたいなものとか善悪で人を見ない。それは南朋にも影響があるんじゃないか」(同)と語っている。
■反発心を原動力に、地道に積んできたキャリア
大森は、高校時代からバンドに熱中し、卒業しても定職に就かずフラフラしていた。そんな状況を見かねてか、父・麿は「こういうのもやってみたらどうか」と息子を俳優の世界に誘った。バンドも人前に立つ仕事で共通点があり、もともと映画も好きだったから、素直に従い、父が主演した映画「サザン・ウィンズ 日本編 トウキョウゲーム」(1993年)で俳優デビューを果たした。
いわゆる「二世タレント」のような扱いで華やかな道を進んできたわけでは決してない。むしろ、地道にキャリアを積んできた。周りから嫌でも父と比較され、その反発心を原動力にしていた。大きな転機となる、35歳の頃に主演した「ハゲタカ」(2007年NHK総合ほか)まで実に200本近い作品に出演していたのだ。
彼を主役に抜擢した大友啓史は「得体のしれない感じなんだよね、大森さんの面白さって。ほかのものとか社会のルールとか、いろんな決めごとに交わらないような感じの、こういう役だからこうでしょという芝居をするんじゃなくて、心の奥底にある悲しみとか、そういうものをちゃんとたたえながら、どこかそれを抑えながら演じている」(同)と評している。
■“得体のしれない”笑顔はそっくり
まさにその「得体のしれなさ」は常識で物事を判断しない両親からの影響があるのだろう。
「普通に枯れていってるだけです、ノットアンチエイジングなんで」と笑う彼は、50代半ばとなった。「でも、それはそれでいいかなと思っています。無理して若作りする必要もないですし。年をとるのを楽しみにするべきだなとは思っています」(「mi‐mollet」2019年10月10日)。
そう思えるのは、80歳を超えてなお現役バリバリの父・麿の存在も大きいに違いない。歳を重ね、本人も認めているように、どんどん表情が父親に似てきている。特にその“得体のしれない”笑顔はそっくりだ。
彼は無表情のまま、喜怒哀楽が入り混じった複雑な感情を表現できる稀有な役者だ。それは、噛みつき合うような関係性の中で培われた激しい感情が彼の胸のうちにあるからに違いない。
文=てれびのスキマ
1978年生まれ。テレビっ子。ライター。雑誌やWEBでテレビに関する連載多数。著書に「1989年のテレビっ子」、「タモリ学」など。近著に「王者の挑戦 『少年ジャンプ+』の10年戦記」
※『月刊ザテレビジョン』2026年5月号

