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【東京国立近代美術館】下村観山展レポート!魅惑の展覧会を解説

下村観山 《弱法師》(右隻、部分) 1915(大正4)年 重要文化財 東京国立博物館蔵 Image: TNM Image Archives (前期展示3/17-4/12)

下村観山も、そのような課題に向き合った一人だった。岡倉天心に師事し、日本美術院の創設にも関わった観山は、その穏健な画風や伝統寄りの主題選択などから、同門の横山大観や菱田春草に比べると、やや「地味」とも見られがちだった。

しかし、日本美術において積み上げられてきた伝統的な表現・技法、主題と真摯に向き合い、精通していたことこそが、観山の強みだった。そこに西洋の写実表現を取り入れることで、伝統に新しい命を吹き込み、生かすことができたのだろう。

東京国立近代美術館では、3月17日から関東では13年ぶりとなる下村観山展が開催されている。今回は、展覧会出品作約150件から数点を取り上げ、観山の歩みをたどりながら、その見どころと観山の魅力を紹介しよう。

①下村観山の源流

下村観山(本名・晴三郎)は、1873年に和歌山県で生まれた。8歳の時に一家で東京に移り、狩野派の絵師・狩野芳崖や橋本雅邦に師事し、絵を学び始める。10歳の頃には師から「北心斎東秀」の号を授けられ、作品にも署名している。

(展示風景)下村観山(北心斎) 《東方朔》 1883(明治16)年 横浜美術館蔵(前期展示 3/17~4/12)(筆者撮影)

この《東方朔》は、狩野派の粉本(絵手本)を元に描いた10歳頃の作品で、展覧会冒頭に展示されている。力強い描線によって人物の衣を描き出す手法は、狩野派ならではの技法であり、少年・観山が着実に基礎を積み重ねていることを感じさせる。

16歳の時には、開学したばかりの東京美術学校の日本画科に第一期生として入学が認められる。ここでは、校長・岡倉天心をはじめ、後に同志となる横山大観や菱田春草など、多くの出会いがあった。

卒業後は、同校で教鞭をとるが、やがて岡倉天心が校長を辞職すると観山も行動をともにし、大観や春草らと共に日本美術院の創設に参加する。

そして「新しい時代にふさわしい日本美術」という課題に、観山たちはそれぞれのやり方で模索と実践を重ねていくのである。

②下村観山のロンドンでの学び

1903年、観山は文部省留学生として、イギリス・ロンドンへと渡った。イギリスが選ばれたのは、日本画と親和性を持つと考えられた水彩画の本場といえる国だからだった。

イギリスでの研究、さらにフランスやイタリアなどヨーロッパ各国を巡り美術館に足を運ぶことで、観山は西洋美術の古今の名作に触れ、自分の未熟さを痛感すると共に、西洋美術の伝統や未知の技法に対する学びの思いを強めていった。

これまでの経験を通して、観山は日本画の画材や表現の特質についてよく知っていた。しかし、西洋美術の本場で作品に触れることで、東西の伝統の違いや、日本画の弱点である色彩や構成力の弱さをも改めて意識するようになる。

この弱点を克服するには、単に表面をなぞるだけでは不十分だった。では、どうすれば良いのか。観山はその問いを胸に、ひたすら作品と向き合い、時には自らの手で写し取っていく。

そんな観山のひたむきな姿勢が現れた一枚が、ルネサンス3大巨匠の一人ラファエロの作品を模写したこの《小椅子の聖母》である。

(展示風景より)下村観山 《小椅子の聖母》 (ラファエロ)の模写 56✕54.5cm  1904(明治37)年 横浜美術館(筆者撮影)

(参考図版)ラファエロ・サンティ 〈小椅子の聖母〉 1513〜14年頃 ピッティ美術館, Public domain, via Wikimedia Commons.

ここでは、円形の板に油彩で描かれた原画が、絹本に日本画の画材で模写されている。支持体や絵の具の材質の違いはあるものの、原画の柔らかく自然な陰影表現や聖母子の親密な雰囲気、甘美さなどが、ほぼ忠実に再現されている。

作品と直に向き合い、綿密に観察しただけでなく、その根底にある技法や理論についてもある程度理解していなければ、ここまでの再現は難しかっただろう。

一方、こちらの《ディオゲネス》は、イギリスで親交のあった作家モリソンに贈った掛軸作品である。

《ディオゲネス》1903-05(明治36-38)年 大英博物館蔵 ©The Trustees of the British Museum(通期展示)

ディオゲネスは、物の所有を否定し、樽の中に住んだとされる古代ギリシャの哲学者だ。この古代西洋に由来する主題を、観山は東洋の水墨画をベースとした技法で掛軸として描いている。
かすれをも活かした太い一筆書きの線は、先に挙げた《東方朔》にも通じるものが見られる。画面上部には、ディオゲネスが住処とした樽の縁の上半分が墨の濃淡のみによって表されている。
顔貌はほのかな陰影を活かして立体的に描き出されているのが印象的だ。
まさに、東西の技法が自然な形で一幅の中に溶け合い、共存している。

(展示風景)(左)《ディオゲネス》1903-05(明治36-38)年 大英博物館蔵 ©The Trustees of the British Museum(通期展示) (右)《ダイオゼニス》 1903(明治36)年 東京国立近代美術館(通期展示)(筆者撮影)

会場には、同じ主題を描いた〈ダイオゼニス〉も並べて展示されている。こちらは日本国内での発表を意識して描かれたもので、ヨーロッパ絵画に近い写実性を強めた表現になっている。
2作品を見比べることで、観山がどのように東西の伝統を学び、自分の中に取り込もうとしていたかが浮かび上がって来るだろう。

配信元: イロハニアート

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