「多分、母の、だと、思います」
さて、人の気配がまったくしないリッツカールトンのお手洗いで。ちょっと気がゆるんだ私は、歯を磨くだけではなく、入れ歯を外して磨いていた。久しぶりに人に会うのだ。身だしなみはちゃんとせねば。万が一にもKU-KUはゆるされない。
でね、そのまま向かった会食会場は美しく、料理は美味しく、ジェントルな美容師さんたちとの会話は楽しく、取材もしっかりできたうえに、久しぶりのお酒にほろ酔いになり、気持ちよく帰宅した私は、そのままメイクも落とさず爆睡し……。
次の日の朝に気づいた。
入れ歯が、
ない!!!!!!!
慌ててバッグの中を引っかき回すが、ない。
どこか道に落としてきたか? と思うが、道を歩いていて突然入れ歯が外れることがあるだろうか。いや、いかに私が注意散漫野郎でも、さすがに入れ歯が落ちたら気づくだろう。
私が身につけているものの中で間違いなくもっとも高価な代物だが、残念ながら「iPhoneを探す」のような追跡機能はない。
必死に脳内検索をする。昨日の行動を巻き戻す。どの時点まではあった? あれ? 食事のときはどうだった? ん? その前……。
ああ……。リッツ・カールトンのお手洗いだ……。歯を磨いたときだ……。
どうしよう。どうしよう。リッツに電話をして「忘れ物はありませんでしたか?」と聞くしかないか。私は脳内でシミュレーションをする。
先方「リッツ・カールトンでございます」
ゆみ「あの、おたくのホテルに忘れ物をしてきてしまったようなのですが」
先「はい、いつでしょうか?」
ゆ「昨日です」
先「どちらに」
ゆ「ええと、1階の、ミッドタウンにつながる場所にあるところのお手洗いに」
先「はい、お品物はなにでしょうか?」
……
ここで、「入れ歯です」と、言うわけだよな。
天下のリッツ・カールトン様だ。『超一流サービスの教科書』という本まで出ているリッツ様だ。よもや、ぷっと吹き出されることはないだろう。ないだろうけれど……。はずい。猛烈に恥ずかしい。
かくて私は、言ってしまいました。
「はい、お品物はなにでしょうか?」
に対して
「い、入れ歯です。あの、母が昨日、おたくのお手洗いに忘れてきてしまったと言うもので……」
北海道のおかーちゃん、ごめん。おかーちゃんのせいにしてごめん。冤罪ごめん。
先方は、笑ったりも吹き出したりもせずに「少々お待ちください」と、電話を保留にした。そして3分も経ったころだったろうか。「はい、間違いなくお預かりしております」と、受け取り方法を丁寧に教えてくれた。
昨日わくわくしながら向かった道を、私はドナドナの気持ちで再訪する。管理室的なところで「あのう……、お電話した佐藤です。あの……い、入れ歯の……」と言うと、「こちらで間違いないでしょうか?」とジップロックに入れられた我が子を手渡された。
紛れもなく我が子なのではあるが、これは母のもの、なのである。
私はその入れ歯をじっと見つめ、「多分……母の……だと、思います」と、初めて見るような顔をして我が子を受け取った。
神様、仏様、お母様。
嘘ついて、ごめんなさい。
リッツのお掃除の人、拾わせちゃってごめんなさい。
この罪は来世で償います。
来世は歯が強い子で生まれますように。
*
さて。この話にも続きがある。実はリッツ・カールトンから戻ってきた我が子(入れ歯)、こんな思いまでして取り戻したのに、現在使用不可状態になっている。それはなぜか。
そして、VIO脱毛よりももっと切実で、命に関わる話として、いま「入れ歯orインプラント闘争」が勃発していることをあなたはご存知か。
「介護を見越したら、インプラント or 入れ歯?」は、現在身体をはって取材中です。
近く、続編を書きますのでお待ちくださいね。
次回は、「マリー・アントワネットか、私か」 です。お楽しみにー!

