写生を極めた画家の一生 ~福田平八郎の一生と、画風の変化~

Japanese_Artist_Fukuda_Heihachirou福田平八郎, Public domain, via Wikimedia Commons.

数学嫌いの少年が、芸術の道で才能開花

福田平八郎は1892年(明治25年)に大分県で生まれました。中学時代は数学が非常に苦手で、試験に落第したという話も伝わっています。

しかし、絵を描くことは大好きで、上京して絵描きになろうと京都市立美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)に入り直し、非常に優秀な成績を修めました。好きこそものの上手なれとは、こういうことを指しますね。

その後、京都市立絵画専門学校でも絵を学び、卒業後も順調に作品を発表しつづけます。1919年(大正8年)には第1回帝展にて初入選を果たしました。当時平八郎は27歳でした。

第3回帝展では特選を獲得し、京都の画壇で一躍注目を浴びるようになりました。20代から30代前半の福田平八郎は絵の対象物を徹底的に細かく観察し、写実的に表した作品を発表していました。

「写生狂時代」は「宋元画かぶれ」の時期でもあった

福田平八郎は20代から30代をどう過ごしたのでしょうか。

ひたすら観察、「写実一筋」

福田平八郎は自分自身を、「写生狂」と評していました。当時の平八郎の絵は自然を隅々まで観察し、動物の骨格や毛並み、植物の葉脈やグラデーションなどを正確に描き出すのが特徴でした。

例えば果実は多様な色味を含み、猫は油断のない表情を浮かべ、花々や葉の線は極めて繊細に描かれました。福田平八郎の写生からは、線の細かさや巧みな筆はこび、対象の質感がありありと伝わるような表現、緊張感のある構図や余白の美などが感じられます。

この時期の代表作は次のとおりです。

・雪 (1919年の第1回帝展で入選)
・鯉 (1921年の第3回帝展で特選)

これらの実績が評価され、平八郎は1924年(大正13年)に32歳で帝展の審査員になりました。また、京都市立絵画専門学校助教授にも就任しています。

当時の流行も影響。宋元画にかぶれた面も

一方、若い頃の福田平八郎は「宋元画風に非常にかぶれて影響を受けた」特徴もあります。『牡丹』は宋・元時代の花鳥画をベースにして、そこに大正期にはやった特有の陰影をつけたそうです。

このころ京都ではおどろおどろしい感じの絵が流行しており、平八郎自身も当時を振り返り、自分も宋元画風に強く影響を受けていたと語っています。

この時代の主な作品

▽安石榴(ざくろ)(1920)

▽牡丹 (1924年)

▽朝顔 (1926)

写実の道は、模索した結果だった

「写実狂」福田平八郎は早くから確立していたわけではなかったようです。

京都市立美術工芸学校や京都市立絵画専門学校で学んでいた時期の作品は、習画期ということもあり、作風に統一感がなく特徴をつかみにくいところがあります。どんな画家も最初はいろいろと試みて、その中から自分の道を見つけるんですね。

1910年代の平八郎の作品を見ると、伝統的な日本画や同時代の新しい傾向の作品など幅広く興味を示していた様子が感じられ、自らの進むべき道を模索していた心境がうかがえます。

京都市立絵画専門学校の卒業制作に悩んだ平八郎は、美学の教授・中井宗太郎に相談し、対象と客観的に向きあうことを決意しました。こうして1917年頃(大正後半)から1920年代後半(昭和のはじめ)にかけての平八郎は、対象を細部まで観察し、徹底した写実表現を試みた作品を発表していきました。

この時代の主な作品です。

▽池辺の家鴨 (1916)

▽緬羊 (1918)

配信元: イロハニアート

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