写生を極めた画家の一生 ~福田平八郎の一生と、画風の変化~

完璧な写生から進化!? 「単純化したデザイン」に進化

福田平八郎は30代に入った1920年代後半(昭和のはじめ)ころから作風が大きく変わりました。1932年に発表した『漣』のように、形態を単純化し、鮮烈な色彩と大胆な画面構成を特徴とする独自の装飾的表現へと向かいます。

写生のスキルが高かったから、抽象化のスキルも高かった

着物の文様や北欧のテキスタイルのようにデザイン性が高い絵の数々は、海の波や水の波紋、水面にはった氷などを抽象化することで生まれました。「いったいどうして急に変わったんだろう?」と気になった方もいると思いますが、これは写生を重ねて対象を研究した結果だと言われています。

この時期の先品は、最初から「線や点だけで表現しよう」と意図したわけではありませんでした。自然の中にある具体的な要素を抽象化した結果なのですが、それができたのは福田平八郎が優れた写生の目を持っていたからでしょう。

「抽象化しすぎ」という意見もあったが、絶賛が上回った

平八郎は1932年(昭和7年)に『漣』を発表したあと、非常に大胆なトリミングやデザイン感覚が活きてくる作品を生み出し、日本画の新たな表現の可能性を見る人に問いました。

『漣』は一面の銀地の上に群青一色で漣だけを描くという大胆な発想でつくられました。一部分だけ見れば「ミミズが這っているような線」があるだけなのに、全体として見ると本当に水面に見えてきます。

正直、ここまでシンプルになると「これは日本画と呼べるのか?」「伝統的な日本画として受け入れられるのか?」といった疑問の声も上がりました。発表当時は賛否両論があったようで、田中一松という当時最も権威のあった美術史家も「これはやりすぎではないか?」という厳しい意見を述べました。

しかし、日本画を進化させたことが評価され、平八郎は1936年(昭和11年)には京都市立絵画専門学校教授となり、1937年(昭和12年)からは新文展の審査員に就任しました。1947年(昭和22年)には帝国芸術院会員に、同年末には日本芸術院の会員となりました。

この時代の主な作品です。

▽漣 (1932)

▽青柿 (1938)

▽竹 (1942)

戦後は「写実」「抽象化」が融合。さらに進化

福田平八郎の作風は生涯で何度か変わりましたが、当時の時代がどう影響したかはあまりわかっていません。

第二次世界大戦後は、20代の「写実」と30代の「抽象化」がミックスされ、さらに進化しました。第二次世界大戦が終わった1945年の時点で平八郎は50代半ばだったため、円熟期といえるかもしれません。

戦後の最高傑作『雨』が誕生

第二次世界大戦後の美術界では戦前・戦中の帝国主義を振り返る一環で、伝統的な日本画を批判する傾向がありました。しかし平八郎は確固とした信念で日本画の表現の可能性を模索しました。

この時期、「徹底した観察」と「造形の美を抽出」が両立され、写実と装飾が高い次元で融合した傑出した作品がいくつも誕生しました。

特に、1953年(昭和28年)に発表された『雨』は大きな話題になりました。描いてあるのは屋根瓦だけです。なぜ題名が『雨』なのか気になりますが、ポツポツと降り始めた雨のシミが屋根瓦に描いてあるからです。雨そのものを描かずにして、雨を表現する高度な技法は絶賛されました。

この時代の主な作品です。

筍 (1947)

▽雨 (1953)

晩年はゆるくなった!? 単純でおおらかなスタイルに

福田平八郎は昭和36年(1961)に文化勲章を受賞しました。日本画の発展に貢献した人物として評価されています。ただし、この年を最後に日展への出品を終えています。

晩年になるにつれ、画風はさらに単純化・シンプル化が進み、細部にとらわれず大らかなスタイルに変わりました。

この時代の主な作品です。

▽花の習作 (1961)

▽鸚哥(いんこ)(1964)
参考ページ (鸚哥の画像)
名都美術館

配信元: イロハニアート

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