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春、高尾山へ|辻山良雄

春、高尾山へ|辻山良雄

水曜の朝八時。荻窪駅からJR中央線を、新宿方面ではなく立川・八王子方面へと向かう。家の間隔が次第に広がっていく車窓の風景を眺めながら、わたしは「高尾山には登ったことあるよね?」と、ずっとぐるぐる考えていた。

わたしは登山サークルの幹事長だったから、都心からアクセスの容易な高尾山には恐らく登っているはずだ。しかし当時は「低山なんて」と思っていたのだろう、その山の記憶だけがぽっかりと抜け落ちている。

さて、電車は高尾駅に着いた。そこから京王線に乗り換え、京王線のホームの上から高尾の街を見渡しても、胸に去来する思いは何もない。高尾山口駅に到着しても、駅舎がモダンに改装されすぎて、はじめて降りる駅としか思えなかった(木のファザードを見てそう思ったが、あとから調べるとやはり隈研吾のデザインだった)。

 

まあ、いいか。

頬をなでる風はもう山の麓のやわらかさだし、我々はすでにここまで来てしまっているのだ。

チェックのシャツにリュックサックという格好をした観光客に混じって、彼らが進む方向へ上っていく。道の両側には昔ながらの蕎麦屋やまんじゅう屋に加え、イタリアンやクラフトビールを出す店も立ち並んで、まるで祭の縁日に来たみたいだ。

楽しいね。

アヤコさんが言った。

確かに家を出てまだ一時間も経っていないのに、もう気分はすでに観光モードになっている。高尾山に行こうと言ったのは彼女のほうだったが、思い切ってここまで来てよかった。

ロープウェイとリフトが共通になっているチケット売り場まで来ると、西洋人の青年二人連れや中国系のカップルなど、外国人の姿が目立つ。そう言えば外国人旅行者は、日本の文化や自然に惹かれて旅をしていると聞いたことがあった。

ロープウェイが出て行ってしまったばかりなので、我々はリフトで行くことにした。リフトはゆっくりと、崖を這うようにして上っていく。体を外にさらしてリフトに座っているあいだ、わたしは隣にいたアヤコさんに向かって「いまここで、急に仕事の電話が入ってきたビジネスマンは大変だな」と笑った。

山の中腹の空気は、冷んやりとしていた。眼下には八王子市内が、そしてその向こうには都庁を中心とした新宿のビル群が見える。ふだんならこの時間は、目の前に広がる関東平野のどこかで朝ごはんを食べている頃だが、同じ時間この場所では、毎日こうした晴れ晴れとした景色が広がっているのだろう。

山腹から山頂に登るルートはいくつかあるが、山に来るのも久しぶりなので、初心者向けの舗装された1号路を行くことにした。

歩きはじめるとすぐスギ林に入る。高尾山は中世より飯縄大権現を勧請した修験道の山でもあるので、道中は関東一円の「講」からの奉納板で溢れ、いたるところに天狗の像がある。薬王院に着くとちょうど祈祷がはじまったようで、平地で見るよりも荒々しく見えるお坊さんが十名ほど、法螺貝を吹きながら山伏スタイルで我々の前を通り過ぎた。

薬王院を過ぎると道は尾根筋に入り、木漏れ日も一段と明るいものに変わった。最後の坂道を上るともう頂上だ。歩きはじめて一時間、少し物足りなく感じたが、山歩きのリハビリにはこのくらいがちょうどいいのかもしれない。

高尾山の山頂は、そこだけがぽっかりと開けた場所で、近くに陣馬山や丹沢山塊、遠くにはぼんやりと富士山が見えた。みな山頂の縁に座って、おべんとうやおにぎり、お菓子などを広げて、思い思いにくつろいでいる。その内どこかから、ラーメンのスープの匂いがプンと漂ってきた。やっぱりこの感じ、何か憶えているなあ。

サークルでは毎年四月に新入生歓迎のハイキングに行っていたから、高尾山に登った年もあったのだろう。山頂では上級生たちが、持ってきた鍋やコンロでラーメンをふるまった。ほどよく動いた体には、温かいインスタントラーメンのスープが染み渡って、そんな時には家で食べるラーメンの何倍も美味しく感じたのだった。

今日は特に何も用意して来なかったので、ポットに入れてきた紅茶を飲んで、もう少し山道らしい道を通りすぐに下山した。麓でとろろ蕎麦をいただき、温泉に入ってもまだ午後の二時。申し分のない休日である。

 

今回のおすすめ本

『世界の果ての本屋さん』ルース・ショー 清水由貴子=訳

この世界を勇敢に、タフに生き抜いた女性がたどり着いたのは、世界の果てにある小さな本屋だった。人生よりほかに、興味深い物語はない――そのように思わせてくれる一冊。

 

配信元: 幻冬舎plus

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