鏑木清方が描いた女性たち ― 静かな時間に寄り添う美人画

【清方の代表作:言葉が浮かぶような絵たち】 

(参考)

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清方は「形は人物を描いても、これを裏付けているものは、季節の感覚」と述べています。季節の草・木・花・虫・魚にとても強い関心がありましたが、それらを見たまま描くのではなく、もっぱら「人」を描きました。絵に「気配」や「物語」が宿るのは、幼い頃から文学に親しんでいた所以といえます。

彼の作品の魅力は、こまかい部分に宿っています。例えば、
・髪の生え際を繊細に表現
・おくれ毛の細さ
・緻密に描かれた着物の柄
・背景に的確に描かれた日常の風景
などです。

なお、清方は没後70年を経過していないため、著作権の関係上、記事に画像を添付していません。参考リンクで作品を見られるものもあるので、ぜひリンク先で絵を楽しんでくださいね。

【明治を回想した特別な三部作】

清方の作品には、彼が三部作であると言っているものがあります。それが『築地明石町』『新富町』『明石町』です。この三作品はお揃いの内箱に入れられ、一つの外箱に収まっていました。作品の下絵となったものには、『築地明石町左右姉妹作』と書かれており、高島屋から依頼され、『築地明石町」の左右に並べる姉妹作のつもりで『新富町』と『浜町河岸』を描いたということです。

明石町と新富町は清方が幼い頃に遊んだ町で、浜町は28歳から6年ほど暮らしていた町でした。清方は、三つの作品に当時の様子や彼の想いを描くために、女性や場面を選び抜いています。

『築地明石町』(1927)

(参考) 築地明石町

1971年に切手趣味週間の切手になった作品です。泉鏡花から絶賛されました。49歳で帝展し、帝国美術院賞を受賞しています。静けさの中に光と空気が漂う傑作です。

1975年に展覧会に出品されたのを最後に、44年ほど所在不明になっていました。見つかったのちは、2019年に東京国立美術館に収蔵されています。

清方は、明石町を「理想の世界だった」と回想。彼は、当時の記憶の懐かしい風景を表現するため、それに相応しいモチーフとイメージに合う女性を形にしました。ハイカラな外国人移住地だった明石町、清方が親しんだ芝居や舞踊の要素などを思わせる作品です。

『新富町』(1930)

(参考) 新富町

新富町は、古くから劇場があり芸者屋や遊女屋が集まってくる場所でした。清方が通っていた小学校の通り道にあります。町にある劇場「新富座」は櫓のない建物で、ガス灯や絵看板が特徴的でした。関東大震災で被災し廃座となってしまいます。

新富座前を歩く粋な装いの江戸前芸者が、雨下駄で先を急いでいるようです。新富座の芸者の雰囲気や情緒を表すため、三部作の中で一番着物の描写に力を入れています。

『浜町河岸』(1930)

(参考) 浜町河岸

日本橋にある浜町には、歌舞伎舞踊の振り付けで一代を築いた二代目藤間勘右衛門の邸宅がありました。この絵は、藤間の稽古の帰りの町娘をイメージして描かれています。

背景には隅田川、対岸は深川。稽古で習った踊りの所作を思い出しているような姿が印象的な作品です。

『妖魚』(1920)

(参考) 妖魚(鏑木清方記念美術館で開催された特別展のチラシより)

岩の上でほほ笑みながら小魚をいじる人魚の姿が描かれています。濡れて乱れた黒髪がその黒さを際立たせ、白い肌や赤い唇、切れ長の目がどこか妖しい雰囲気を漂わせています。清方の作品としてはめずらしく、思い切った色づかいで幻想的な裸身像に挑んだ意欲作です。

この作品は第2回帝展に出品されたとき、評価が分かれ、大きな話題となりました。清方自身は後に随筆で「失敗作」としていますが、彼の思惑を超えて、今もなお観るものに強い印象を残す大作と言えます。

配信元: イロハニアート

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