生まれたくなかった。でも、生まれてしまった。その感情から始まる哲学――反出生主義を研究する哲学者・小島和男氏による新書『生まれたくなんかなかったのに それでも生きるための哲学』が5月27日に発売になります。「生まれたくなかったのに、なぜ生きるのか」を問う本書より、まず「はじめに」を2回にわけてお届けします。

苦しみは生まれたことによって生じる
生まれたくなかった。でも、生まれてしまった。
この気持ちには名前がある。「反出生主義(アンチナタリズム)」という。新たに人を生み出すことには重大な問題が伴う、という考え方だ。わが子を愛してはいけないという話ではないし、今生きている人が死ぬべきだという話でもない。「始めなければ良かったことでも、途中でやめる必要はない」──それが反出生主義の核心にある区別である。
私はこの思想の研究者であり、反出生主義者を自任している。南アフリカの哲学者デイヴィッド・ベネターの主著『生まれてこないほうが良かった──存在してしまうことの害悪』(田村宜義氏との共訳、2017)を翻訳し、自分でも入門書を書いた。大学で哲学を教えながら、「生まれてこないほうが良かった」という一文と何年も向き合ってきた。著書や論文を書き直すたびに思い知らされるのは、これが単なる理屈ではなく、一つの感情であるということだ。まず「生まれたくなかった」という感情がある。その感情を言葉にしようとする営みもまた、反出生主義の一部なのだと思う。
そしてやはり、「生まれたくなかった」は、「生きていたくない」という否定ではない。「生まれてこないほうが良かった」ということと、「今から死んだほうがいい」ということは、論理的にまったく異なる主張なのだ。
映画館の比喩で説明しよう。観に来なければ良かったと思うほど退屈な映画でも、途中で席を立つほどではないことがある。せっかく来たのだし、もしかしたら後半で面白くなるかもしれない。そう思って、最後まで観る。逆に、観に来て良かったと思っていた映画が、途中からひどくなって帰りたくなることもある。期待が大きかっただけに、裏切られた気持ちが強い。
つまり、「始める価値」と「続ける価値」は別物なのだ。人生も同じである。生まれてこないほうが良かったとしても、いったん生まれてしまった以上、この人生には「続ける価値」がある場合がある。退屈な映画でも、観ているうちに面白くなることがある。「つまらなさが常軌を逸していて逆に面白い」ということだってある。
だから、私が扱う反出生主義は自殺を推奨する思想ではない。むしろ、生まれてしまった者として、どうやって生きていくかを考える思想である。
私が以前書いた入門書、『反出生主義入門』(2024)では、ベネターの『生まれてこないほうが良かった』を中心に、反出生主義という思想を紹介した。ベネターは、存在することと存在しないことを比較し、存在しないことのほうが常に良いと論じた。その議論は緻密で、多くの批判に対しても粘り強く応答している。
しかし、『反出生主義入門』を書き終えた後、もう一つ別の問いが残っていることに気づいた。「では、生まれてしまった私たちは、どうやって生きたらいいのか」という問いである。ベネターの本のタイトルは『生まれてこないほうが良かった』だが、副題には「存在してしまうことの害悪」とある。あくまでも「存在してしまうこと」の害悪についての議論なのだ。存在してしまった者が、その害悪とどう向き合うか。それは、ベネターの議論の先にある問いだ。
この本は、その問いへの応答の試みである。
本書を貫いているのは、一つの視点だ。生きづらさの原因は「個人」ではなく「制度」にある、という視点である。
働かなければならないのに働きたくないのは、怠惰だからではない。働かなければ食べられない制度のもとに生まれ落ちたからだ。ほとんどの人は、働かなければ生活できない。家賃を払い、食費を稼ぎ、税金を納めなければならない。働くことを選んだのではなく、働くことを強いられている。それなのに、「働きたくない」と言うと、「甘えだ」「怠けだ」と非難される。
結婚したくないのに孤独死が怖いのは、臆病だからではない。老後の生活保障と家族に依存する制度になっているからだ。日本の社会保障制度は、家族がいることを前提に設計されている部分が多い。配偶者がいれば、いざというときに助けてもらえる。子どもがいれば、老後の世話を頼める。そういう前提で制度が作られている。だから、結婚しない人、子どもを持たない人は、老後の不安を抱えることになる。
親が嫌いなのは、感謝の心が足りないからではない。子から親への扶養義務という制度が、逃げ道を塞(ふさ)いでいるからだ。民法は、直系血族が互いの扶養義務を負うよう定めている。親子関係がどれほど悪くても、法的には縁を切ることができない。虐待を受けて育った子どもが、老いた親の扶養義務を負わされる。そんな理不尽がまかり通っている。
助けてくれる人がいないのは、人間として欠けているからではない。ケアを個人の友愛に委ねる社会の設計に問題があるからだ。困ったときに助けてくれる友達がいれば、なんとかなる。でも、友達がいない人は、困ったときにどうすればいいのか。友達を作れなかった人は、助けを得る資格がないのか。そんなことはない。人間には、友達の有無にかかわらず、生きる権利がある。困ったときに助けを求める権利がある。それを保障するのが、社会のセーフティネットであり、制度的なケアであるべきだ。
私たちは、生きづらさを感じたとき、まず自分を責めてしまう。「自分が弱いから」「努力が足りないから」「性格に問題があるから」。ある種の自己啓発本は、そうした自己責任の論理を強化する。「人生を変えたければ自分を変えろ」「環境のせいにするな」「すべては自分次第だ」。
しかし、立ち止まって考えてみてほしい。その生きづらさは、本当にあなた個人の問題なのだろうか。それとも、あなたをそこに追い込んでいる制度や構造の問題なのだろうか。
「親ガチャ」という言葉が広まったのは、この残酷な事実を言い表しているからだろう。生まれ落ちた場所ですでに人はふるいにかけられている。裕福な家庭に生まれるか、貧しい家庭に生まれるか。教育熱心な親のもとに生まれるか、無関心な親のもとに生まれるか。健康な身体で生まれるか、障碍(しょうがい)があり生まれるか。これらは、本人の選択とは無関係だ。努力の入口に立つ前から、差はどうしようもないほど大きい。
それなのに、「努力すれば報われる」「自己責任だ」という言葉が、苦しんでいる人を追い詰める。努力できる環境にいること自体が、すでに恵まれているのに。
本書は、そうした「自己責任」の呪縛から読者を解放したいと思っている。あなたが苦しいのは、あなたのせいではない。制度が悪いというのは言い訳ではなく、事実だ。そう言い切ることが、この本の出発点である。
本書に収めた12の章には、生活の場面から始まる章が多い。
第1章「働きたくないのに、なぜ働くのか」では、労働の問題を考える。働くことの意味、働かないことへの偏見、そして働かなくても生きていける社会の可能性について。
第2章「結婚したくないけど、孤独死が怖い」では、結婚と孤独の問題を扱う。結婚しなければ老後が不安だという感覚は、どこから来るのか。孤独死は本当に「悪い死」なのか。
第3章「親が嫌いだ」では、親子関係の問題に切り込む。親を好きになれないことへの罪悪感、親から離れる権利、そして「戦略的感謝」という処世術について。
第4章「猫が先に死ぬのが辛い」では、ペットとの関係を通じて、死別と喪失について考える。先に死ぬと分かっているのに、なぜ猫と暮らすのか。
第5章「友達は必要か」では、友人関係の問題を論じる。友達がいないことへの後ろめたさ、本や映画を友とすること、そしてケアを制度で支える必要性について。
第6章「楽しみをどこに置くか」では、快楽の質について考える。他者を害する楽しみ、自分を害する楽しみ、そして一人で楽しむことの安全性について。
第7章「病と老い」では、健康と加齢の問題を扱う。反出生主義者こそ健康に気をつけるべき理由、一人で老いることの準備、そして孤独死について。
第8章「子どもを持たなくていいのか」では、出産と子育ての問題を論じる。「産め」という圧力、生まれてくる子どもの視点、そして養子という選択肢について。
第9章「人生に目標は必要か」では、人生の意味と目標について考える。目標がないことへの罪悪感、社会が押しつける「目標」の罠、そして「苦痛を避け、加害しない」という目標について。
第10章「経験は大事か」では、経験への信仰を疑う。「経験を積め」という呪縛、実体験への過剰な信仰、そして体験格差の問題について。
第11章「安楽死は選べないのか」では、死の選択について論じる。安楽死の定義と歴史、世界の安楽死事情、そして日本での法制化に反対する理由について。
そして第12章「生まれたくなんかなかったのに、なぜ生きるのか」では、本書全体を振り返りながら、生まれてしまった者として生きることの意味を問う。
どの章でも、哲学以前の、実感のレベルの声を重視した。私はその声を、教室で、街で、そして自分の中で、何度も聞いてきた。そうした声を、「怠け」「わがまま」「甘え」と片づけないために、言葉がいるのだ。
(「はじめに」後編は明日26日公開します)

