
5月19日に放送された「プロ野球 レジェン堂」(毎週月曜夜10:00-10:55、BSフジ)。今回のゲストは、“不屈の天才”の異名でも知られる読売ジャイアンツのレジェンド・吉村禎章だ。MCの徳光和夫、遠藤玲子とともに、PL学園時代のセンバツ優勝秘話や王貞治との知られざるエピソード、さらに選手生命を脅かした大ケガからの壮絶な復活劇を語った。
■王貞治への憧れから始まった野球人生…PL学園で味わった挫折と栄光
奈良県御所市出身の吉村は、小学1年で野球と出会った。叔父が甲子園出場経験を持っており、当時早稲田実業の主力選手だった王と対戦経験があったという。徳光から「叔父さんと王さん、どっちがカッコよかったですか?」と聞かれると、吉村は「王さんにはかなわないです」と苦笑い。同じ左打ちということもあり、幼少期から王への憧れが強かったことを明かした。
中学時代には、教師の勧めでグローブ製造工場でアルバイトも経験。当時工場では甲子園中継が流れており、1978年にPL学園が見せた奇跡の逆転優勝を見たことで心を動かされたという。天理高校や智弁学園ではなく、あえて大阪のPL学園へ進学した背景にはそんな原体験があったと語る。
しかし、全国から有力選手が集まるPL学園での現実は厳しかった。毎週のように40人以上がセレクションを受ける中、同学年で入部できたのはわずか17人。さらに吉村は、特待生が並ぶA〜BランクではなくまさかのDランクスタートだったという。意外な事実に徳光と遠藤も驚きの声を上げた。
それでも厳しい練習を積み重ね、3年時にはキャプテンに就任。PL学園初のセンバツ出場を果たし、決勝では“逆転のPL”を象徴する劇的勝利を飾った。当時、選手全員が顔に泥を塗って試合に臨んだ理由について、吉村は「監督から“カッコつけて野球やってないか?”と言われて」と説明。さらに「これをやったら泥臭くなるだろ?」と実際に泥を塗られたことから全員が続き、緊張もほぐれたと振り返る。
9回裏に逆転サヨナラ勝ちを収めた決勝戦については、「自分たちが追い詰められたときに、“逆転が起こるんじゃないか”と思った。最終的にはサヨナラで勝つとみんな思っていた」と当時の強烈な自信を明かしていた。
■「私、巨人軍の王です」…人生を変えた一本の電話
高校卒業後は法政大学への進学を希望していた吉村。しかし、プロのスカウトからも誘いを受けていたという。中でも阪神の勧誘は特に熱心だったそうだが、ドラフト会議で3位指名したのは巨人。それでも吉村自身は“プロでは通用しない”と感じており、ドラフト指名を断るつもりだったと明かす。
そんな中、ドラフト会議後に実家へ一本の電話が入る。電話口から聞こえてきたのは「私、巨人軍の王です」という言葉だった。まさか本人とは思えず驚いたというが、続けて王から「僕と一緒にユニフォームを着て野球をやろう」と誘われて思わず「はい」と即答したという。まるでドラマのような入団秘話に、徳光と遠藤も思わず笑みをこぼしていた。
巨人入団後は才能が一気に開花。1985年には打率リーグ3位、1987年には30本塁打を放ちリーグ優勝に貢献し、憧れだった王監督の胴上げも経験した。駒田徳広とともに早出特打を続けていた頃には、王監督から「野球人である以上、ずっと努力し続けなさいよ。私だってずっと努力しているんだ」という言葉を掛けられたといい、現在でも心に残っているという。
さらに1987年には、後楽園球場最後の公式戦で“2ストライク4ボール”からホームランを放つ珍記録も誕生。球審と吉村は誤カウントに気づかないまま打席に立ち、最後に打った球がスタンドインしたというから驚きだ。翌1988年には完成したばかりの東京ドームでも第1号ホームランを記録するなど、“節目に強い男”らしいエピソードが次々と飛び出した。
■大ケガからの奇跡の復活…“不屈の天才”と呼ばれる理由
順風満帆に見えた吉村の野球人生だったが、1988年7月の中日戦で悲劇が訪れる。左膝じん帯断裂に加え、神経まで損傷する大ケガを負い、選手生命の危機に直面したのだ。復帰の可能性を信じ、吉村は渡米して2度の手術を決断。「自分が信じた医師に手術してもらえるなら、復帰できなくても後悔はないと思った」と語る姿からも当時の覚悟の大きさが伝わってくる。
壮絶なリハビリを経て、わずか1年2カ月で1軍復帰。東京ドームに響いた大歓声について、吉村は「あの歓声をいただいたとき、“野球人生こんなことがあるんだ”と思いましたね」と感慨深げに振り返る。徳光も「あれほど涙が出る拍手はなかったですね」と語るとおり、当時の復活劇がどれほど多くの野球ファンの胸を打ったかが伝わってくる。
今回の放送ではPL学園時代の泥臭いエピソードから王との運命的な縁、そして大ケガからの復活まで、吉村の人間力が詰まった内容となっていた。華やかな成績だけではなく、挫折や苦悩を乗り越えてきたからこそ“不屈の天才”という言葉がこれほど似合う選手はいないだろう。

