印象派の父、カミーユ・ピサロ。印象派を旗揚げするまでの人生とは【アート初心者】

カミーユ・ピサロの自画像カミーユ・ピサロの自画像, Public domain, via Wikimedia Commons.

カミーユ・ピサロ ~印象派の父。ゴッホ、セザンヌ、ゴーギャンなどのグループを先導~

ピサロは19世紀にフランスで活躍した印象派画家です。豊かで鮮やかな色彩と、光と影が繊細なタッチで表現された作品は「印象派」と呼ばれています。

印象派とは

19世紀後半のフランスに発した、絵画を中心とした芸術運動。1870年代から1880年代に突出した存在になった。鮮やかな色彩が特徴で、線や輪郭を描くのでなく、絵筆で自由に絵の具をのせて絵を描いている点が今までの絵画と異なる。新印象派、ポスト印象派、フォービズム、キュビズムなどが生まれるきっかけとなったとして重要な立ち位置を占めている。

参考・出典:Wikipedia

Paysage au champ inondéPaysage au champ inondé (1873年), Public domain, via Wikimedia Commons.

ピサロの人生 ~幼少期からパリ上京まで~

カミーユ・ピサロの正式な名前はジャコブ・アブラハム・カミーユ・ピサロといいます。カリブ海に浮かぶ島々の1つ、セント・トーマス島で1830年7月10日に生まれました。

両親はフランス人。家業を継ぐ予定だった

セント・トーマス島はデンマークの植民地でしたが、ピサロの両親はフランス人でした。正確には、父親はポルトガル系のユダヤ人で国籍がフランス、母親はフランス系ユダヤ人でセント・トーマス島生まれ。

ピサロの父はフランス本土から金物をセント・トーマス島に運ぶ商人でした。ピサロには家業を継いで欲しかったらしく、ピサロが12歳から17歳の間フランス本土の学校で学んだあとは、島に呼び戻して家業を手伝わせていたそうです。

芸術への情熱は消えず。ベネズエラを経て再びフランス本土へ

ピサロが絵画の手ほどきを受けたのは、パリ近郊のパッシーにあるサバリー・アカデミーに在学していたときでした。サバリー自身がピサロにデッサンや絵画の基礎訓練を行ったといわれています。

セント・トーマス島に17歳で戻り、家業を手伝っていた時代もピサロはデッサンの練習を続けていました。

ピサロが21歳のとき、フリッツ・メルビューがセント・トーマス島へ移住してきたことが大きな転機となります。ピサロはメルビューの助手としてフルタイムで働くと決意し、絵画を学ぶようになりました。芸術への情熱は消えていなかったんですね。

最終的にピサロはメルビューとともに1852年にベネズエラに移りました。22歳のときです。ベネズエラに滞在した2年間は自然や村の風景を描き、膨大な数のスケッチを描きました。1855年、24歳のときにパリへ移住し、フリッツ・メルビューの兄アントン・メルビューの助手として働くようになります。

この時代の代表作

セント・トーマス島の海岸で話をする2人の女

セント・トーマス島の海岸で話をする2人の女セント・トーマス島の海岸で話をする2人の女, 1856年制作, 所蔵: ロンドン・ナショナル・ギャラリー, Public domain, via Wikimedia Commons.

ピサロの故郷であるカリブ海のセント・トーマス島を描いた、彼の初期の風景画。海岸で談笑する二人の女性という何気ない日常の一場面を主題としている。

画面を斜めに横切る道の構図が空間に動きと奥行きを与え、カリブの明るい光を温かな色調で捉えた筆づかいに、自然を細やかに観察する画家の眼差しが表れている。

配信元: イロハニアート

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