ロンドン時代は再び低評価
1870年~1871年に起きた普仏戦争(フランスとドイツの戦争)ではデンマーク国籍だったピサロは兵役につけず肩身が狭い立場でした。それが影響してか、ピサロは家族とともにロンドン郊外の村ノーウッドへ移住しました。
しかし、当時のロンドンではピサロの写実的な絵は受け入れられませんでした。ロンドンの人々の感覚では「前衛的すぎた」ようです。ピサロは友人への手紙で「私の絵画はまったく関心を持たれていない」と書いています。
この時期、ピサロは美術学校アカデミー・シュイス時代に出会ったモネとロンドンで再会します(同時期にモネもロンドンに滞在していました)。
モネとピサロは「屋外制作は、屋内のアトリエで描く絵では表現できない光や雰囲気を描写できる」という信念を再確認し、自分たちのスタイルが間違っていないことを確かめあいました。
The Crystal Palace, London, Public domain, via Wikiart Commons.
まとめ
カミーユ・ピサロは「印象派の創設者」「印象派の父」と呼ばれていますが、そのスタイルは今までの蓄積の中から自然と生み出されました。
後半の記事『「印象派」と「新印象派」ってどう違うの? ~カミーユ・ピサロの変遷から、印象派について学ぶ~』では、ピサロが印象派を旗揚げしたあと、新印象派に移り、新印象派からも卒業する様子を解説します。
