【第2話】ウリ ~一歩、心に近づくまで~

(C)琴織ゆき・ねこまき(ミューズワーク)/スターツ出版 無断転載禁止
「ウリ?、なにも怖くないから出ておいで?」
ケージの隅っこに限界までからだをちぢめて丸くなる、一匹の子猫。
生後三か月のキジトラ、女の子だ。
団体で保護してから一か月近く。まったく警戒心が解けずにいる。
人が怖いのか、近づくだけでも唸り声をあげられてしまう始末だ。手を伸ばせば、眼光鋭く「シャー!」が飛び出し、体をのけぞらせて逃げようとする。
ウリは古民家の庭で生まれた子だ。
保護依頼があり、ほかのきょうだい二匹と共に保護したものの、その時点で人きわ暴れん坊だった。ケージからキャリーに移す際、それはもう凄まじく暴れて、団体メンバーから幾度となく悲鳴があがったくらいである。
ちなみに、『アビ』・『イヴ』と名づけたほかのきょうだいは、ウリとは対照的だ。
二匹とも懐っこくて、自ら人にすり寄ってくる。膝の上にお腹をだして寝そべり、べろーんと両手をバンザイする姿は、とにかくかわいらしい。
そんなふうに人に甘えるきょうだいの姿を、ウリはいつもケージのなかから遠巻きに眺めていた。
まるで『アタシは騙されないんだから』とばかりに目をすがめて――。
ジト目でむすっとした表情は、それはそれで癖になりかわいいのだけれど、いかんせんあからさまな態度で苦笑してしまう。
保護される前に人間に嫌な思いをさせられたのか、あるいは、もともと警戒心が特大に強い子なのか――。
なんにせよ、こういう子は気長に様子を見ていかなければならない。
(ほんの少しずつだけど、距離は近づいてきてる……と思うんだよね)
保護したばかりの頃は、部屋に人の気配があるだけでも唸り声をあげていた。
きょうだいたちがおもちゃで遊んでいても、いっさいケージから出ようとせず、ごはんもほとんど食べてはくれなかったのだ。
それがひと月が経ったいま、ひとまず人がいないときはケージから出てきて自由に部屋を歩き回るようになった。ごはんは誰よりもたくさん食べているし、きょうだいたちが楽しそうに遊んでいると、息を殺しながらケージから出てきて、部屋の隅からその様子を見守るようにもなった。
ゆっくり、ゆっくりとではあるけれど、着実な進歩だ。
(でも、この調子だとなかなか譲渡は難しいかな……)
野良猫にしろ、もともと飼い猫だった子にしろ、保護猫はさまざまな事情を抱えている子ばかりだ。
保護後、なるべく人慣れさせてからの譲渡になるようにしているけれど、やはりどうしても人を怖がり、なかなか懐かない子は存在する。
保護猫の里親を希望する人がいても、数匹候補がいたら、やはり懐いている子がいいとなってしまうもの。
攻撃的な子はちょっと不安、と煙たがられることが多いのが現状だ。
「ウリちゃーん、ほら怖くないよ?」
優しく声をかけつつ試しにそっと手の甲を近づけてみると、――バシッ!
「いてっ!」
特大の猫パンチが飛んできた。
唸りはしなかったものの、これ以上近づくなオーラを全身からむんむんと放っている。手はまだ構えたまま、いつでも二発目いけるからなと言わんばかりだ。
(それでも、爪を立てなくなっただけマシかな)
苦笑しながら「ごめんごめん」と謝って、私は手を引っ込める。
無理やり近づこうと試みても逆効果だ。ウリに『人は怖くないもの』と理解してもらえるまでは、気長に付き合っていかなければ――。
「アビは明日の面会、うまくいくといいね。いい人たちだよ」
すでに人慣れして問題なく譲渡できる段階にあるアビは、明日、里親さん候補との面会が入っている。お相手の名は高田さんだ。
高田さんご夫婦は、常に猫中心の生活をしている猫愛にあふれた方々だ。数年前にも保護猫を譲渡したことがあるので、信頼も安心感もある。
今回、アビを引き取りたいという要望を受け、ぜひとお願いしたのだった。
人間はともかくきょうだいのことは大好きなウリからしてみれば、いいお兄ちゃんであるアビが旅立ってしまうのは、きっとさみしいだろうけれど――。
(色柄がちがうのもそうだけど、きょうだいでここまで性格がちがうのも面白いところだよね。人と同じで、みんな個性があるんだよなぁ)
その子の性格をきちんと理解し、いかにリラックスした状態で日々を過ごさせてあげられるか――そして、その子と相性のいい新しい家族を選定できるか。
保護猫活動は、そうした試行錯誤の積み重ねによって成り立っている。
小さな命と向き合う日々は、新鮮な出来事でいっぱいなのだ。何度も何度も失敗と学びを繰り返して、適切な形を模索していく。
(本当に、何年この活動をしていても、猫から教えてもらうことは尽きないな)
ウリのこれからを考えながら、私は改めて猫の奥深さを実感するのだった。
◇
「またご縁があってうれしい限りです」
「こちらこそ。高田さんなら安心して譲渡できますから」
高田さんとアビの面会日。朗らかな笑みを浮かべる旦那さんは、保護している猫たちと戯れながら首を振った。
「いやいや。夢だった猫との暮らしが実現して、本当に幸せで。うちで猫がのびのびとしているのを見ているだけでも泣きそうになるんですよ」
「そう言っていただけると、こちらとしてもうれしいです。でも、まさか高田さんがまた里親さんになってくれるなんて……。本当に大丈夫ですか?」
高田さんは、すでに三匹の保護猫を引き取ってくれている。さらにもう一匹、と希望があるとは思っていなかったので、正直驚いていた。
「知っての通り我が家はもう猫中心の生活なのでご心配なさらず。なんなら、ここにいる全員まとめて連れ帰りたいくらいだよ」
はっはっはと笑ってみせた旦那さんに、奥さんが苦笑する。夫婦そろって猫好きだけれど、とくに旦那さんは猫愛があふれて止まらないらしい。
「アビは今回保護した子たちのなかでも、ひときわ元気で懐っこい子なんです。ほかの猫たちの面倒も見てくれる、本当にいいお兄ちゃんで。協調性もあるので、きっとおうちの猫ちゃんとも仲良くできると思います」
「それは安心だ。ちなみにアビのきょうだいの子たちはもう決まってるんですか?」
「ええ、うちにいない子も含めて、五きょうだいのうち二匹は決まってます。決まってないのは、アビと同じキジトラのウリですね……。この子はちょっと性格が難しい子なので、里親さんを探すのが難航するかもしれないです」
言葉を濁すと、旦那さんがピクリと反応する。
「そりゃあまたどうして」
「ものすごく警戒心が強くて、なかなか人慣れしなくて。だいぶ距離は近づいてきたんですけど、譲渡できるようになるまでは時間がかかりそうなんですよね」
「なるほど。その子、見せてもらっても?」
「あぁはい、かまいませんが……。不用意に近づくと手が出るかもしれないので、そっと見守る感じでお願いできますか?」
「もちろん」
高田さんご夫妻を猫部屋に案内する。
ここは、検査済かつ相性のいい子たちが共に過ごしている猫部屋だ。アビたちは普段、みんなここにいる。これには、きょうだいが人と仲良くしている姿を見て、人間は怖くない、大丈夫だと思ってくれたら――という狙いもあった。
「きょうだいそろって人嫌いなら母猫が教えた可能性が高いのですが……。ほかの子たちは全然そんなことないので、もしかしたらウリは、保護する前に人が怖いと思うような出来事があったのかもしれないです。性格もあるとは思いますけど」
「そうか……。かわいそうに」
眉尻を下げる旦那さんは、そっと部屋に入り、床に腰を下ろした。
隣に奥さんも座ると、人が入ってきて逃げていた猫たちがそろそろと様子をうかがいに近づいてくる。その筆頭は、やはりアビだった。
アビはそろそろと旦那さんに近づくと、くんくんと鼻を鳴らした。
(さすがのアビでも、初めての人は怖いかな?)
静かに様子を見守っていると、アビはやがて旦那さんの手にすりつきだした。
「君がアビくんだね、かわいいなあ」
「本当に懐っこいのねえ」
旦那さんの表情がふにゃりと緩む。
「ニャー」
アビも高田さん夫妻を受け入れているようだし、問題なく譲渡できそうだ。
「それで、あのケージの隅っこで丸くなっているのがウリかな?」
「はい。いま、警戒心マックスって感じですね」
ウリは呼吸ができているのか心配になるほど石化していた。
ぴくりとも動かず、絶対に振り向かないぞとばかりにお尻を向け、壁のほうへ顔をうずめてしまっている。やはり友好的なアビとは真逆の反応だ。
「人が怖いのかあ、ウリちゃんは」
ケージのなかにそっと手を入れ、高田さんはウリのお尻を撫でた。後ろを向いているからか手は出ないものの、「ウウウウ……」と低い唸り声が落ちる。
そんなウリのもとへ、トコトコとアビが近づいていった。
「にゃあん」
怯えるきょうだいを心配しているのか、それとも『この人たち怖くないよ』と伝えてくれているのか――。アビはウリに顔を近づけて、耳下をぺろぺろと舐めた。
「仲がいいんだなあ」
「そうですね。とりわけアビは、ウリのことをよく気にかけてくれてて」
「ううん……となると、アビと離れ離れにするのはやはり得策ではないな」
ふむふむ。どこかわざとらしく考え込むような仕草をしてみせたあと、旦那さんは奥さんのほうを向いて、なんともにこやかに告げた。
「よし。アビもウリも、うちが連れて帰ろう」
「は!?」
目を見開いて驚愕する奥さんに、旦那さんはうろたえることもせず続ける。
「二匹を離したらかわいそうだろう。うちなら四匹でも五匹でも変わらないし」
(いやいやいや、それはさすがに変わるでしょう……!)
まさかの提案に、こちらはたじたじになるしかない。だが、奥さんはすでにどこ
か諦めた表情で額を押さえていた。
「ウリの話を聞いたときから、そうなる気がしていたのよ」
「アビだって、きょうだいと一緒のほうがうれしいだろうしね。うちの子たちはみんな友好的だから、きっと二匹のことも受け入れてくれるはずだよ」
「ううん……。まあ、離すのはたしかにかわいそうだけど」
まさかそんな話になるとは思っていなかった。だが、もしも可能なら、そのほうがありがたい話ではある。何より高田さんならこちらとしても安心だ。
「もし大丈夫なら……トライアルだけでもお願いできますと助かります。この通り人に慣れていないので、なかなか手がかかってしまうかもしれませんが」
「保護猫はそういうものさ。そもそも、こんなふうに人慣れさせてから譲渡してくれていることがありがたいんだから。大丈夫、こちらはシャーと言われようが引っかかれようがかわいいなあとしか思わないから」
ははは、と豪快に笑ってみせた旦那さんに、私もつられて笑ってしまう。
(ウリにとって、いい変化になればいいけど……)
思いがけない展開ではあったものの、好転だ。猫にとっても里親さんにとっても出逢いは一期一会。きっと目には見えない縁が繋がっているのだろう。
なかば呆れながらも了承してくれた奥さんにも感謝だ。
そして後日、改めてアビとウリの二匹を引き取りにやってきた高田さんは、心底うれしそうな顔をしてこう言ってくれた。
「そう心配しなくても、きっと慣れてくれるから大丈夫だよ。もし慣れなくても、それでかわいくないなんて思うことは決してないからね」
「はい、ありがとうございます。どうか二匹をよろしくお願いします」
高田さんの猫愛は本物だ。無償の愛をそそいでくれる高田さんご夫妻なら、きっとウリも少しずつ人間への認識をあらためてくれるだろう。
それでもやはり、心配な気持ちをすべて拭いきることはできないけれど――。
「またね、ウリ。アビも、どうかウリをよろしくね」
高田さんのキャリーのなかで丸まっているウリと、どこかきょとん顔をしているアビに声をかける。
送り出す立場としてはさみしい。けれどそれ以上に、この子たちの猫生が、高田さんとの出逢いでより豊かに彩られますように――そう心から願うのだった。
◇
アビとウリの譲渡からしばらくして――。
『たしかに最初は大変でしたけどね』
電話で近況報告を受けるなかで、奥さんはおかしそうに笑った。
『でも、うちの人は一度連れ帰ったら何があろうと面倒を見るだろうし、覚悟はしてたんです。まあ、威嚇されたってどうってことないしね。うちはとにかく、猫たちが幸せにのんびり生活を送ってくれたら、それだけで十分だもの』
「本当に……高田さん夫妻の猫愛にはあっぱれです」
トライアルから、という話ではあったが、トライアル期間が終わる前に高田さんからこのまま二匹を正式に引き取りたいと連絡があったのだ。
『ゆっくりとではあったけど、着実に距離は近づいていったと思いますよ。引きこもりでまったく表へ出てこないところから、少しずつ顔を出すようになって』
「アビはすぐに慣れたんですよね」
『うんうん、うちの子たちともすぐに打ち解けてたし。でも、その様子を見ていたからこそ、ウリも出てくるようになったんじゃないかしら。だんだんウリもそこに行っていいのかな……って感じでそわそわしだしてね、かわいいったら』
奥さんは「ああ、そういえば……」と、何かを思い出すように続ける。
『引き取ってすぐ、かかりつけの動物病院に行ったときのことなんだけど』
「はい」
『それはもう、ものすごい暴れっぷりだったのよ。先生もお手上げってくらい。さすがの私も少し参っちゃったんだけど……。でも、先生がウリを見てね、これがこの子のすべてではないので大丈夫ですよって言ってくれたの。これからきっと変わっていきますからって。私、その言葉にすごく励まされたのよね』
「なんとそれは……すばらしい先生ですね」
暴れる子は危険だから処置できない、と拒否する獣医師もいる。そんななか、猫を蔑むことなく飼い主の心まで労われる獣医師は、非常に稀少な存在だ。
『実際、その言葉通りだったし。三匹から五匹に増えて、夫はうちに猫がたくさんいるって毎日うれしそうよ』
くすくすと笑いながら語る奥さんは、とても穏やかで幸せそうだった。
『ちょっとずつおもちゃで遊ぶようになって、そのうち触らせてくれるようにもなって――。いまじゃいちばんの甘えん坊さん。朝起きるとね、お尻をトントンしてって猫たちがソファにずらっと並ぶのよ。ふふ、かわいいでしょう?』
お尻トントンは、猫の尻尾の付け根あたりをトントンと優しく叩いてあげるコミュニケーションだ。尻尾の付け根あたりは神経が集中しているため、気持ちがいいらしい。それを求めるということは、相手に気を許している証でもある。
「幸せな光景ですね」
――きっとウリは、最初から誰よりも甘えん坊な性格だったのだろう。
ゆっくりと時間をかけて触れ合い、ようやく警戒が解け、ウリにとって高田さんご夫妻は甘えても大丈夫な存在、家族となった。
人間は怖いものという認識を、無償の愛で塗り替えてくれたのだ。
(アビや他の子たちも、なかなか一歩を踏み出せないウリに『このパパとママなら大丈夫だよ!』って教えてくれたのかも)
正式譲渡後もたびたび近況報告をしてくれる里親さんたちの話は、何より私たちの活動のエネルギーになっている。保護猫も里親さんも幸せそうならなおのことだ。
(いい家族に出逢えてよかったね。アビ、ウリ)
のちのち高田さんから送られてきた写真には、旦那さんの服のなかにすっぽりと入るウリたちの姿があった。その表情はどれも幸せに満ちあふれていて、思わずこちらまで笑みがこぼれてしまう。
(すっごくいい写真)
私たちの活動は、あくまでボランティア。微々たる力添えしかできない。
けれど、こうしたひとつの出逢いが、人、そして猫の一生の在り方を変えることを知っている。
だからこそ、それが互いの人生を彩るものになるように、私たちにできる範囲で人と猫の橋渡しができればと――そう思うのだ。
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