
(撮影:齋藤陽道)
平日の昼間、しんと静かな店内。先ほどから店には、少しサイズの大きいスーツを着た出版社の男性がいて、店内に響き渡るほどの大きな声で本を紹介している。彼はこちらが何か言うと恥ずかしそうに顔を赤らめ、大げさな身振りでしきりに恐縮した。わたしは「もう少し低いトーンで話してくれないかな」と思いつつ、顔がニヤニヤするのを抑えることができなかった。
その男性が帰ったあと、すぐさまアヤコさんが「出版社のひと?」と尋ねてきた。
「そう」
「ああ……。いまあの人のような“いかにも営業のひと”って見かけなくなったからね。少しなつかしくなっちゃった」
そう言って彼女は笑ったが、わたしも同じ気持ちだった。たとえ声は大きくても、わたしはそうした“いかにも営業のひと”のことが好きで、どこか郷愁を誘われるのだ。
本の流通の世界は、基本的には出版社(主に営業部門)―取次会社(本の問屋)―書店という三者で構成されているが、以前よりこの三者は男性ならワイシャツにきっちりしたネクタイ、女性ならシャツに地味な色のスラックスという服装をした人が多かった。出版社に勤めている人も、編集の人は思い思いにラフな格好をしているが、営業の人は取引先を訪問するからだろうか、みな固めの服装をしている(イベントなどで編集と営業の人が並ぶと、同じ出版社でもその違いが際立つ)。しかし最近ではそうしたことも変わりつつあるようで、わたしは次のような話を聞いた。
ある取次会社の入っているビルの前に立つと、以前はそこから出てくる人が取次に勤めている人かそれともほかの会社の人なのか、その服装や顔つきからすぐに分かったが、いまでは見分けがつかなくなったという。簡単に言えば「垢ぬけた」のだ。そう言えばわたしは取次会社の人に関し、次のように書いたことがあった。
職人を思い起こさせるその気質はどこからくるのだろう。それは彼らがもともとダンボールを何十箱と荷受けして、自分の手で一冊ずつ本を数える〈肉体労働者〉の集まりであったことと関係があるのかもしれない。
(辻山良雄『小さな声、光る棚』)
もちろんいまでは、本は機械とバーコードにより自動的に仕分けられるから、日常的に自分の手で数える人など一人もいないだろう。そして自分の手で本を触ることがなくなり、体感としてその重さを忘れてしまったときから、取次の人に限らず本を扱う労働者はみな、他の職業と見分けのつかない「会社員」に変わったのだと思う。
別に時代おくれの服装でいる必要はないし、その人の格好と心のあたたかさに関係はない。しかしそれでも、つるんとした顔()が増えたこの頃から、本の流通に関わる三者のあいだにはすきま風が吹くようになった。
頻繁だった三者の雑談は、職場の人員整理に伴って減り、ほとんどの用事はメールで済ませるようになった。
朝、本が送られてきても、その後ろに人の顔を思い浮かべることがなくなった。
最近増えてきた無人店舗を見て「大きな自動販売機と変わらない」と言った人がいたが、人間不要のオートメーション化された社会の中では、次第に仕事の温度が失われていく。なぜ仕事に温度が必要なのかと言えば、それにかけられた熱量こそが、受け取る人を感動させるからなのだが、考えてみれば我々はただ顔を突き合わせていただけではなく、そうすることで互いのパーソナリティーを確認し、仕事に必要な熱を交換していたのだった。
あるとき店まで来た取次の若い女性が、一旦挨拶をして帰ろうとしたあと、またレジまで戻ってきて歌集を買った。そのとき彼女は「自分でも歌を詠みます」と恥ずかしそうに言った。彼女が恥ずかしそうに見えたのは自分のことを話したせいかもしれなかったが、仕事の時間に歌集を買った、そのためらいもあったと思う。
だがわたしのほうは少し体温が上がった。
いいよ。全然いい。自分を抑えられないあなたのほうがよっぽど〈あなた〉に見えるし、そのほうがずっとよい仕事が出来ると思う。
わたしは口には出さずとも全身でそのようなことを伝えながら、彼女を見送った。
今回のおすすめ本

『犬のうんちとわかりあう』三好愛 ミシマ社
物事を自分が感じたまま素朴に書くだけで、それはある種独特な面白い読みものになる。それは結局はその人が面白いからなのだろうが、もともとはみな誰でもそうなのだと思う。

