Camille Claudel , Public domain, via Wikimedia Commons.
クローデルの幼少期と家族との関係
1864年12月8日、フランス北部ヴィルヌーヴ=シュル=フェールに、カミーユ・クローデルは生まれました。父ルイ=プロスペール・クローデルは土地管理を行う官吏で、芸術への理解が深く、娘の才能を経済的にも精神的にも支える存在でした。
一方で、母ルイーズとの関係は複雑でした。長男を亡くした悲しみを抱えた母は、長女であるカミーユを受け入れられず、その愛情は後に生まれた妹ルイーズと弟ポールに注がれていきます。とくにポールは母の寵愛を一身に受け、後に外交官・詩人として名を成すことになります。
母の愛を得られなかったカミーユは、その鬱屈した思いを芸術に向け、幼いころから粘土で人物像を作ることに没頭しました。
その才能に最初に目を留めたのは父でした。彼は彫刻家アルフレッド・ブーシェを娘の師として紹介し、カミーユの学びを後押しします。ブーシェはカミーユの小像に驚き、彫刻家としての資質を見抜きました。弟ポールは後年の回想文・書簡集で、「彼女は、自らが芸術家としての天命を与えられていることを自覚していた。」と記しています。
やがて本格的に学ぶため、父の理解と支援を受け、1881年にクローデル一家はパリへ移住します。母の強い反対にもかかわらず、父は娘の才能を信じ、その道を開いたのです。女性が芸術家を志すこと自体が異例の時代に、カミーユは迷うことなくその道に進んでいきます。
そして19歳、彼女は運命の人──43歳のオーギュスト・ロダンと出会うのです。
クローデルとロダンの出会い。そして愛憎劇
17歳のクローデルはパリで、女性にも門戸を開いていた数少ない美術学校、アカデミー・コラロッシに通い、アルフレッド・ブーシェの指導を受けます。やがて同世代の仲間たちとアトリエを構え、本格的に制作へ打ち込みました。
その後、師ブーシェがイタリアへ渡ることになり、弟子たちの面倒を任されたのが、当時すでに注目を集めていた彫刻家オーギュスト・ロダンでした。弟子としてロダンのアトリエに加わったクローデルは、その美貌と卓越した才能によってたちまちロダンを惹きつけました。やがて二人は師弟を超え、助手・共同制作者・そして恋人となっていきます。
次第に愛は喜びから痛みに変わっていきました。ロダンが内縁の妻ローズのもとへ戻るたびに、クローデルの心には深い裂け目が生まれます。この苦しい時期にクローデルが妊娠と中絶を経験したとする説も伝えられています。
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さらに、1888年の《サクンタラー》でサロンから高い評価を得たものの、その後、世間は再び彼女を「ロダンの弟子」としか見なくなっていきました。どれほど独創的な作品を生み出しても、「ロダンの影響下」と評され、芸術家としての名も、愛する人の存在も、彼女から遠ざかっていったのです。
クローデルは、信じていた愛と誇りを同時に失い、心身をすり減らしていきました。彼女が残した手紙には、その切実な叫びが刻まれています。
「いつも何か欠けているものがあり、それが私を苦しめるのです。」
この「欠けているもの」とは、恋人の愛だけではありません。芸術家としての尊厳、女性としての居場所、そして自らの存在そのもの──。それらが少しずつ失われていく喪失感が、やがて彼女を狂気の淵へと追いやっていったのかもしれません。
