後世の彫刻へ与えた影響
クローデルが探求した素材の組み合わせやポリクロミー(多色性)は、アール・ヌーヴォーの装飾的な感覚と響き合い、20世紀に入って広がる異素材彫刻の先駆けとも言えるものでした。
近年の大規模展でも、彼女の作品は「心理の表現」「動きの造形」「光の捉え方」「素材の選択」など、複数の要素を融合させた独自の造形表現として再評価されています。つまりクローデルは、ロダンの持つ質量感とは異なるベクトルで、感情や時間のきらめきを彫刻に封じ込めた芸術家だったのです。
精神的追い詰めと30年の沈黙
ロダンとの決別ののち、クローデルの心は急速に追い詰められていきました。
「ロダンが私のアイデアを盗みに来る」――そうした被害意識にとらわれ、アトリエにこもって作品を壊すこともあったと伝えられます。周囲には偏執的に映ったその姿も、彼女にとっては生き延びるための必死の抵抗だったのでしょう。
1913年、父の死をきっかけに、家族は彼女を精神病院に入れる決断を下します。唯一の理解者だった父を失い、母や妹はもともと芸術活動に反対していたため、帰る場所はなくなってしまいました。弟ポールも外交官として世界を飛び回り、姉を日常的に支えることはできませんでした。
こうして49歳から亡くなる79歳までの30年間、クローデルは病院での暮らしを余儀なくされます。医師の記録によれば、後年は発作的な症状は落ち着いており、退院の可能性すらあったとされます。それでも家族の意向により、彼女は病院を出ることはありませんでした。
芸術家としての活動は途絶え、静かな沈黙のなかで時は流れていきます。けれども、彼女の手から生まれた彫刻たちは確かに残されていました。そしてそれらは、彼女の死後、時を経て再び光を浴びることになります。
