
昔からスポーツが大の苦手。小学生のとき、人数が足りずゴールキーパーとして入ったサッカーの試合では、簡単なボールをお手玉して前半だけで5点を失い、そのまま交代させられた。
だから普段サッカーの試合を追いかけることはないのだが、どういうわけかワールドカップだけは好きだ。今回も多くのゲームを見ているが、ラウンド16のパラグアイ対フランス戦は、世界の現実を想起させずにはおかない、複雑な試合だった。
それはまず後味の悪い、ダーティーな試合だったと言えるだろう。パラグアイの選手はずっとフランスの選手のユニフォームを掴み、体に抱きつき、審判の見ていないところでは小突いたり足を踏んだり、危険な行為をくり返した。スター選手に対してそれは顕著で、エースであるキリアン・エムバペには、常時二~三人の選手をつけてもみくちゃにした。だからフランスが1-0で勝利したとき、わたしは心から安堵した。そうでなければ正義の出番なんてない。
エムバペは相当フラストレーションが溜まっていたのだろう。試合が終了したとき喜びを爆発させ、一人で何事か叫んでいた(想像するに、とてもここでは書けないような言葉だったのではないか)。そのときパラグアイのゴールキーパー、オルランド・ヒルがエムバペに近づき、彼に何か話しかけようとした。しかしエムバペはヒルを無視して喜び続け、ヒルはがっかりして、エムバペの背中に力なくボールをぶつけた……。
ヒルはただ互いの健闘を称え合いたかったのだと思う。しかしその思いは受け止められることなく、ボールはころころ、グラウンドの上を転がった。ゲームのあいだエムバペがされたことを考えれば、それは仕方がないと言えるが、南米選手の置かれた状況を鑑みると、ことはそう簡単には割り切れない。
パラグアイにはスラム街で生まれた、経済的に恵まれない選手も多く、ヒルも四年前、自分のサッカー用具を売り払って、息子の医療費の足しにした。それに比べるとフランスの選手たちの年棒は軒並み数十億と高額で、ラグジュアリーブランドに身を包んだファッションアイコンとなっている選手も多い。パラグアイのラフなプレースタイルも、VARというテクノロジーに多くを負った現代サッカーでは、ある種のなつかしさ(=人間らしさ)さえ感じさせるものだった。
サッカーの世界に限らず、経済的に十倍以上もの差がある人同士では、「彼らは交わることのない別の世界を生きている」と考えたほうが現実的だ。越えることのできない格差の壁を見せつけられ、パラグアイの選手たちは何を思ったのだろうか。
もちろんそのことで危険なプレイが擁護されてはならないし、フランスの選手たちにも彼らの正義や見えない努力があるだろう。だから二つの世界はただすれ違うだけ。そこに同じ人間としての感情の交流を見出すのは、いまの段階では難しい。
わたしは、最近よく口にしている「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という宮沢賢治の言葉を反芻した。
残念ながら、この話にオチはない。
今回のおすすめ本

『茨木のり子全日記I』茨木のり子 katsura books
生誕100年の今年、まだ読まれたことのないテキストがこんなにもあったのかと、心底驚きよろこんだ。多くのファンを持つ「現代詩の長女」の日記。その出版は事件である。

