
バラエティー番組を中心に、ABEMAでのキャスター業務に就いている瀧山あかね。Abema TV(現ABEMA)が2015年4月、日本初のネットテレビ局として開局してから2年後、同局初のアナウンサー採用で入社した3名のうちの一人だ。高身長でモデルのようなビジュアル、元NMB48という経歴もあり、今年の4月には4作目の写真集「By Your Side」(集英社)をリリースした。“ABEMAのグラビア担当”と呼ばれることもあるが、彼女の思考は前向きだ。一度は夢絶たれたからこそ、自身を客観的に見る自己分析と、見た目に反した負けん気の強さが言葉ににじむ。ABEMA10周年を迎えた今年、アナウンス室の開設秘話から、瀧山の現在までの歩みを聞いた。
■アイドルオタクだから写真集にもポジティブ「番組に貢献できたのも嬉しい」
――今回で写真集は4作目、カレンダー出版やグラビア出演もあり、“ABEMAのグラビア担当”のように言われることもあります。その言われ方は嫌ではありませんか?
嫌ではないです。ポジティブに受け止めています。芸人さんや制作の方々が面白がってくださって、番組内で話のフックになっている感じもあるので、やってみて良かったなという感想です。私への興味きっかけでABEMAを観てくださった方もいて、番組に貢献できたのも嬉しいです。もともと私はアイドルオタクで、家にはアイドルの方々の写真集がたくさんあるので、お話を頂けたときも「私がやっていいんですか?」という嬉しい気持ちでした。
――瀧山さん自身も高校時代はNMB48の二期生でしたね。短い期間(2011年5月~2012年1月)で卒業したのは、アナウンサーを目指していたからでしょうか?
子どもの頃から「めざましテレビ」(フジテレビ系)のキャスターに憧れていて、フジテレビのアナウンサーになりたいという夢はありました。ただ、当時はまだ高校生なので、NMB48に入ることに深い考えはなかったですね。オーディションを受けたのは、本当にただアイドルが好きで、アイドルになればアイドルの皆さんに会えると思ったからです。
早く卒業したのは、練習と活動で学校になかなか行けないことが多かったからです。学校側から出席日数が足りていないから進学できないと伝えられ、勉強に専念しようと決めました。
――その後、関西学院大学に入学し、芸能活動を再開しながらアナウンススクールに通われたということです。その時点では明確にアナウンサーを目指していたのですか?
その頃にはそうですね。NMB48を卒業したあと、同期が「ミュージックステーション」(テレビ朝日系)や「NHK紅白歌合戦」(NHK総合)に出ているのを観て、少し悔しかったのですが、気持ちを切り替えて自分を保っていました。

■フジテレビは最終面接落ち、絶望のときにABEMAがアナウンサー採用を開始
――有名大学に進学し、芸能活動を並行してアナウンススクールに通う。アナウンサー志望らしい王道ルートですが、就活で夢は叶いませんでした。
インターンをしていたとき、どこも倍率が高すぎるのを身に染みて感じていたので、受かったら奇跡だなとは思っていました。ただ、第一志望のフジテレビは最終面接まで行って不合格だったので、人生で一番落ち込みました(笑)。
アナウンサー試験は再チャレンジできますが、就活は取り返しがつかない。あえて留年して、という人もいますが、それにしても面接担当の方々には覚えられているだろうし、「もう一度」ができない環境で。諦めるしかないんだという現実に自分の中で折り合いがつけられず…。
でも、どうしても東京でアナウンサーになりたくて、フリーアナウンサー事務所の道も考えましたが、私の場合、ただの大学生。基盤がなかったので、東京の企業で働こうと決めました。
――東京へのこだわりが強いですね。
兵庫生まれでずっと関西暮らしだったのと、日本で一番人の多い街で働いて、自分がどこまでできるのか試したかったんです。内定が取れた企業はありましたが、そのあとにABEMAがアナウンサー採用を行うとスクールの先生から聞いて。本当に運が良かったと思います。アナウンサー採用は時期が早くて、例年、普通の就活が始まる前には終わっているものですが、その年のABEMAは7月頃に応募がかかったんですよね。完全にスイッチを切っていましたが、これが最後のチャンスだと思って応募しました。

■とりあえず新聞を読んでみる…アナウンサーと言えなかった一年目
――合格して、念願のアナウンサーとなりましたが、当時のABEMAにはアナウンサーが必要とされる自社制作番組がまだ少なかったと思います。
そうですね。あったとしても、私みたいな未経験で実力のないアナウンサーは、番組制作側のリスクが高かったと思うので、「この先どうしたらいいんだ…」って(笑)。
アナウンス室自体も同時に立ち上げるという段階だったので、ABEMAとしてのアナウンスルールも並行して作っていきました。テレビ局によって言葉の使い方や読み方に若干の違いがあるのですが、元アナウンサーの講師の方にお越しいただき、ABEMAではどうするのかを一つ一つ決めていきました。
――まずはアナウンス室を形にしないと何も始まらないですもんね。
そうなんです。でも、何から始めたらいいのか迷ってしまい、講師の先生とルールを固める、とりあえず新聞を読んでみる、という状態でした。西澤(由夏)さんはアナウンス室ができる以前から会社に勤めていて、「チャンスの時間」を担当していたのですが、私と藤田(かんな)は一年弱ぐらい、講師のもとで練習の日々でした。
■「そんなアナウンサーいないから面白い」、転機になったプロデューサーの一言
――そんな状況が変わったのはいつ頃でしたか?
「WINTICKET ミッドナイト競輪」という毎日の生放送番組が始まって、そこにアナウンサーが必要だということで担当として入ったのが、初めてのアナウンサーとしてのお仕事でした。毎日アナウンサーのお仕事ができることで、気持ちの変化は大きかったですね。
それから担当させていただく番組も徐々に増えていって、「チャンスの時間」にゲスト出演したのも転機でした。プロデューサーとプライベートの話をしていたら、「そんなキラキラOLいないから、それを出したら面白いと思うよ」と言ってくださって。
――キラキラOL(笑)。
自分では思っていなかったんですけど、派手だったようで…(笑)。番組で「キラキラOLクイズ」をやったらすごく跳ねました(笑)。そこから皆さんからの見られ方が変わった気がします。プライベートは隠さなきゃいけないことだと思っていたら、「そんなアナウンサーいないから面白い。もっと出していこう」「じゃあ、出します」という感じでした。
――いったいどんな生活を披露したのですか?
例えば、「普段どこ行ってるの?」と聞かれて、「シーシャ(水タバコ)に行ってます」と言ったら、大笑いされました。当時は今ほど一般的ではなくて、アナウンサーのイメージで言ったら表では話さないほうがいいだろうなと思っていたんです。でも、ABEMAだったらそれが“面白い”に変わるんだという発見になりました。

■ニュース読みは「いつか叶ってほしい夢」、今は自分の価値がある場所で
――お話を伺っていると、順調ではない期間もあるものの、前向きな歩みですね。
でも、今だからそう話せるだけです。3年目ぐらいのときは自分的に暗黒期で…。「チャンスの時間」で見られ方は少し変わったものの、なかなかレギュラー番組には繋がらず。毎日、悩んでいました。
――また抜け出す転機が来るまで?
というより、今ある番組を全力で頑張る。それしかできないんだったら、それを全力でやるというふうに毎日を頑張っていたら、見てくださった制作の方が「特番やってみる?」「この番組やってみる?」と声をかけてくださり、それの積み重ねでだんだん担当番組が増えていって、今に繋がっています。
――番組では「ニュースを読ませてもらえないアナウンサー」といじられることもあります。そのことに対してはどんな思いがありますか?
もともと情報番組のキャスターに憧れがあったので、ニュースを読みたいという気持ちはずっとあります。でも今はバラエティーのほうに私の価値はあるので、向いているところで頑張ります。グラビアができて、写真集が出せて、次はニュースというのは欲張りすぎだろうなと思います(笑)。いつか叶ってほしい夢ですね。
■「ABEMAってなに?」と言われた時代から“面白い”が認められた10年
――瀧山さんは開局2年目からの入社ですが、初期と今ではABEMAに変化は感じますか?
ネットテレビ局だからできることがあって、10年で、「自分たちだから作れる」という意識は大きくなったと思います。これからもっともっと面白い番組が生まれていくんだろうなと感じています。
周囲からの反応もガラッと変わった気がします。最初は面白い番組を放送しても、「ABEMAってなに?」「知っているけど観たことはない」というように、伝わらないことが多かったです。でも今では、共通の話題としてABEMAの番組の話ができるようになりました。ABEMAが日常の当たり前の存在になったのが、10年の一番大きな変化じゃないのかなと思います。
――最後に、ABEMAアナウンサーになって良かったと思うことを教えてください。
アナウンサーというお仕事が“これ”ぐらいだとしたら、その倍以上のお仕事ができていると思います。アナウンサーの仕事の枠を超えて色々なことをやるのをみんなが面白いと思ってくれる環境なので、グラビアも、恋愛リアリティショーに出ることも、新しいスペックになる。それがいいことだし、面白いと思ってもらえるこの環境に、ABEMAのアナウンサーになれてよかったなと思います。
◆取材・文=鈴木康道

