酒場の小恥(こはじ)。あるワインビストロにて|大平一枝

酒場の小恥(こはじ)。あるワインビストロにて|大平一枝

 酒場での失敗、失態、赤っ恥は数限りなくある。だいたい酒なしでも私の人生にはそれが多い。まして酔いが加わるのだから、失敗はいよいよ派手になる。
 脈絡なく書いているとそれだけの連載になりかねないので、ここでは恥の度合いを大中小に分けて書きたい。
 こんな言葉があるか知らないが、まず小恥(こはじ)から。

 

 長年の飲み仲間と呼べる人が、男女それぞれに少しいる。
 仕事を通じた付き合いが大多数だ。例外的に「この人と気が合うと思うから会ってみて」と言われて、驚くくらい意気投合した人もいるが、かなり稀といえよう。
 仕事仲間から、季節の変わり目などにふっと飲みたくなる相手へと移行するには、いくつか偶然の条件が重なるようだ。
 たとえば家が近いとか、飲むペースや好きな酒の傾向が似ている、話していて疲れない、店選びの基準が近いなど。
 どれもささやかな偶然の重なりである。だがたぶん、それがひとつやふたつだけだと長続きはしない。
 私はこれに、ある重要な要素を加えたい。そのことに気づいたのは、謎めいたワインビストロで、男性の仕事仲間によってであった。

 彼とはたまたま家が近く、読書傾向や時事的なできごとへの関心も重なるところが多い。
 新刊を上梓したときなど、ごくたまに飲むようになって十数年。当初は共通の仕事の話をしていた。それが、子どもの習い事情報や、安くて腕の良い近所の整体など個人的な話もできる気楽な飲み友達になったのは、この近所の謎めいた店がきっかけである。
 打ち上げか何かの拍子に、「あそこの中がどうなっているか、一度見てみたいですよね」と盛り上がった。

 それはワインビストロで、古い木造アパート二階建ての一室にある。一見するとただのアパートで、よもや飲食店とは誰も思わない。だが扉を開けると、きりっとした女性ソムリエが出迎えてくれ、料理もおいしいらしいと、巷で噂になっていた。聞けば料理やワインに詳しい知人たちも、みな知っている。
 ちなみに私はワインに明るくない。今でもソムリエに何か訊かれただけで緊張して、「おまかせします」と小声になる。うっすら「この地方の、こんな味が好きだ」くらいならなんとか言えるが、年数も銘醸地もさっぱりわからない。
 けれどもきらいではないし、評判だけは知っていたのでなんとしても扉の奥を知りたい。ワインとの距離感、好奇心の度合いが彼も同じだった。

 いよいよその店を訪れると、艶のある醤色(ひしおいろ)の杉板の床に、木製のテーブルがふたつ三つ。六畳か八畳ふた間と台所をぶち抜いてワンルームにリノベした、見るからに洒落た空間だ。

 ひと組の先客がひそやかに話している。
 私はなぜだかナチュールワイン(自然に近い農法で育てたぶどうを使い、添加物を抑えて作るワイン)は二日酔いしないという根拠のない俗説を信じていて、その日もスラリと背の高いクールな女性ソムリエに勧められるまま、どんどんグラスを空にしていた。ナチュールの少し濁りや発泡感のあるもの、素朴で、きれいに整いすぎていないところがわりに好きなのである。

 彼の話題は仕事の話から、将来や暮らしのことなど個人的なものへと移行していた。
 と、だんだん口数が減り、ときに眉間をひそめたり、口をつくんだりする。なんだ。なにが悪いのか。いくつか年上の私が偉そうに助言をしているからか。少し怪訝に思う気持ち以上にほろ酔いの心地よさが上回り、さてもう一杯、その前に、とトイレに立った。
 彼はその隙にさっさと会計──ふだんはハシゴ前提で一軒交代が多い──を済ませていた。私は目を丸くして尋ねた。
「えーもう?」
 彼は心からうんざりした様子で、言い放った。
「だって大平さん、声大きいんですもん」
 言葉が出なかった。
 本当にそのとおりだったからだ。
 2軒目もなくその場であっさり解散となった。

 しばしば、ちょっといいレストランや静かめのカフェで、大きな声で話している中年女性たちのグループを「ああいうおばさんにはなりたくない」と思いながら見ていた。私がそれだった。
 もともと声が大きいのは劣等感であるものの、酒を飲むと強大になることに気づいていなかった。
 彼はずっと嫌だったのだろうなあ。早く帰りたくてしょうがなく、私が席を離れたタイミングに、今しかない! と立ち上がったのだろう。
 そそくさと会計を願い出る姿を想像したら、恥ずかしさと情けなさで私こそ一秒でも早く逃げ出したくなった。

 歳を重ねると不思議だ。男性も女性も酒が入ると、卒業式の呼びかけくらい声が大きくなる。
 もしそれほど飲んでいない人が、その場に居合わせたら地獄だ。私よりはるかにピッチが遅い彼からしたら、あれはまさしく地獄。
 アパート改造ビストロは、元住宅なので天井も低い。声もそのまま店全体に響き渡る。自分の個人的な話が、私の大声で他の客やクールビューティなソムリエ、なんなら奥の料理人にも広められたのだから、たまったものではない。お前と飲んだ時間を返せと思われたに違いない。

 酒場で大声は厳禁である。そして、声のトーンが相手に不快でないことも、長い付き合いの飲み仲間になる案外重要な要素のひとつだと思う。
 彼と疎遠にならなかったのは、あのとき嫌なことをはっきり言ってもらったからのような気がしている。
 おそらくそのへんを境に、らっきょうの季節がくれば漬け方や、互いの子どもの進学のこと、最近よく作る夕食のおかずなど、たあいもない個人的な話をするようになった。

 ところで大声を気をつけるようにはなったものの、簡単に直るわけもなく、もはや互いに適度にうるさい大衆的な店しか選ばない。この間など、餃子ひと皿が三八〇円のひとり暮らしの大学生が来そうな中華チェーン店だった。
 もちろん隠れ家ビストロはそれ以降行かずじまいのうちに、いつしかアパートが解体されていた。
 TP0に合わせた声のトーンを使い分けられる人になりたいが、酒が入ると制御不能になり、憧れは叶いそうにない。

 

配信元: 幻冬舎plus

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