日本中に社会現象を巻き起こした映画「国宝」の原作者・吉田修一さんの作家デビュー30周年記念作品『タイム・アフター・タイム』が各紙誌で絶賛、感涙の声が続々届いています。
18歳の初恋と二十年後の再会を描いた本作は「究極の恋愛小説」でありながら、「人生そのものを讃える壮大な物語」として、多くの読者の心を揺さぶっています。
東京、長崎、そして沖縄を舞台に、青く輝く夏の空と海を背景に描かれる、切なくも感動の物語。この夏だからこそ読んでほしい一冊です。
未読の方は、まずここで冒頭の一部分をお読みください。
話題沸騰中!『タイム・アフター・タイム』吉田修一
* * *
(承前)
台所から義母の妙子も戻り、大人たちが全員揃っても、まだ子供たちが降りてこなかった。
「亜子ーーーー!」
最後通牒(つうちょう)とばかりに、真朝がまた体を廊下の方に捩って二階に声をかける。
今度はさすがに子供たちの騒々しい足音が降りてくる。
真っ先に入ってきたのは海斗で、「お父さん、明日、渓流でしょ? 亜子姉ちゃんは部活だけど、莉子(りこ)
ちゃんと瑚子(ここ)ちゃんは行くって」と、興奮気味である。
「亜子ちゃんの学校のバスケ、強豪なんだってね」
尾崎は尋ねた。
「でも練習めっちゃきつい。私たちも高等部と同じメニューなんだよ」
亜子の短く切った髪はまだ少し濡れている。赤く灼(や)けた鼻が果物のようである。
「いただきまーす!」
美南が運んできたごはんが子供たちに行き渡ると、一斉に食べ始める。
美南と真朝の姉妹は似ていないが、こちらの亜子、莉子、瑚子の三姉妹はそっくりで、まるで夏野菜が並んでいるようである。
三姉妹の食欲に負けじと、いつも以上の速さでごはんを頬張る海斗を、尾崎が眺めていた時である。
「尾崎くん、明日、渓流行くの?」
焼酎ですでに顔を赤くした義父の哲郎が声をかけてきた。
「車で中洲(なかす)に降りられるところがあるでしょ? そこに行こうかと思ってて」
尾崎は梶原家定番の角煮に箸を伸ばした。
「最近、急に天気変わるから、気をつけてよ」
そんな哲郎の心配に、「本当にそうよ」と、真朝が口を添える。
「……急にすごい雨になるからね。もうね、この辺、最近ちょっと異常。竜巻警報とか出まくってるし」
「川もね、ちょっと油断してると、あっという間に水嵩(みずかさ)増すから怖いよ」
そこに桔平も加わる。
「……この前なんて、その雨の中、車で走ってたら、そこの小さな橋あるでしょ、あそこがもう冠水してんだもん。びっくりしたよ」
「ねえ、やめとけば?」
そう声をかけてきたのは美南である。
しかしすぐに哲郎に、
「明日の天気次第だよ。そう気温が上がらなきゃ大丈夫だし。どうせ行くの午前中だろ?」
と訊かれ、「はい、昼ごはん河原で食べて帰ってこようかと思ってて。街道沿いに新しいピザ屋できてるじゃないですか。それ買って」と尾崎は答えた。
「ああ、あそこ、ちゃんとピザ窯(がま)で焼くから美味(おい)しいんだって」
真朝である。
会話がピザの話に流れ、渓流行きの中止を心配していたらしい海斗が、ほっとしたように食事に戻る。
「もうお腹(なか)いっぱいだろうけど」
スナック潮騒(しおさい)のママが小鉢を出してくれる。八重山かまぼこという石垣島の名産で、常連が土産に買ってきてくれたらしい。
尾崎は、確かに腹いっぱいだったが、一つ摘(つま)んだ。甘くフワッとした食感が芋焼酎に合う。
場所は秩父駅に近い歓楽街の一角である。
小さな舞台でミスチルを熱唱していた桔平がカウンターに戻り、尾崎たちは改めて杯を合わせた。
「尾崎くん、なんか仕事? さっきからずっと携帯ばっかり気にしてるけど」
「あ、仕事じゃないんですけど、同僚から何か連絡くるかなと思って」
十人ほど座れるカウンターは、ほぼ埋まっているが、常連客同士でさっきからママを相手に新しくできた病院の話に夢中である。
ママの横に立っていたバイトの女の子が、「義理の弟さんなんですってね」と、声をかけてきたのはその時で、
「あ、そうか。優香ちゃん、初めてか」
そう受けたのは桔平で、「……俺と違って、シュッとしてるでしょ。都会の男って感じで」と笑う。
「確かに、この辺にはいない感じかも」
お世辞だろうが、優香も微笑む。

「そうだ、優香ちゃんもずっと東京だったんだよね?」と桔平。
「そうなんですよ。ファッション系の学校出て、しばらくアパレルで働いてたんですけど」
「そうなの? どの辺で?」
尾崎は尋ねた。
「一番長かったのは青山ですかね」
胸の下が絞られた服のせいか、優香の豊かな乳房が目立つ。
「お勤めはどちらなんですか?」
「俺? 東京、丸の内」
芋焼酎のおかわりを作ってくれる優香に、尾崎は答えた。
「あの辺、あんまり行かなかったなー」
「若い人はあんまり来ないのかな」
「でも、すごいおしゃれな通りがあるじゃないですか、ライトアップされてる」
二人の会話を聞きながらソングブックを捲(めく)っていた桔平が、結局また舞台に向かう。
「今日は、代行ですか?」
ふいに優香から訊かれ、尾崎は、「え?」と尋ね返した。
「今日、お車ですか? それとも梶原さんの奥さんがお迎え?」
改めて優香に訊かれ、「ああ。義姉(ねえ)さんが迎えに来てくれるって言ってた」と、尾崎は答えた。
「じゃあ、そろそろ?」
優香が時計を見る。十時前である。
美南の実家から、ここ秩父駅まで車で十五分ほどかかる。
「ああ、そうだね。十時ごろって言ってたから」
「じゃ、もう一杯、最後作ります?」
「うん、お願い」
結局、二曲連続で歌った桔平が戻り、喉が渇いたとばかりにウィスキーの水割りを一気飲みする。
かなり酔ったらしく、尾崎に桔平が凭(もた)れるように席に着く。
「お義姉さん、そろそろじゃないですか?」と、尾崎は訊いた。
桔平が壁時計を見上げる。
桔平のスナック通いを許してやるように、真朝を説得したのは義父の哲郎だったらしい。絶対に許さないと言い張る真朝を、「息抜きくらいさせてやれよ!」と、最後にはあの温厚な哲郎が怒鳴りつけたという。
もちろん桔平も反省はしていたので、父娘のケンカのあともしばらく控えていたのだが、半年ほど経った頃、「私が十時ごろ車で迎えに行くから、行けばいいじゃない」と、真朝が折れたらしい。
「なんか、やっぱりこっちはちょっと時間の流れが東京と違って、いいですね」
ふとそんな言葉が尾崎の口からもれる。
「田舎だからね」
「半日、畑仕事で汗かいて風呂入って、早めに晩メシ食って、こうやって飲みにきて」
「定年したら、こっち来れば?」
「え?」
「土地なんか腐るほどあるんだし。あ、そうか、その頃にはもう、お義父(とう)さんたちいないかなぁ。いや、……まぁ引退してんのは確かだろうな」
「定年かぁ、考えたこともなかったなぁ」
「そりゃそうだよ。尾崎くんなんて、これからが働き盛りなんだから」
「でも、どうしたんですか、急に定年後の話なんて」
尾崎は芋焼酎を舐めた。
「いや、別にどうってことはないんだけどさ」
桔平も氷に薄まったウィスキーを舐める。
「……この前、真朝が、自分が死んだら海に散骨してもらうことに決めた、なんて話しててさ」
「え?」
尾崎が大げさに驚くと、「いやいや、病気でもなんでもないよ。逆に健康すぎるくらいだから」と、桔平が笑う。
「……ほら、真朝ってさ、せっかちな所あるじゃん。とにかく先のことを決めたがるみたいな。決めてると安心するみたいな」
「それで、死んだら海に散骨ですか?」
「なんだって」
「でも、梶原家の立派な墓あるじゃないですか」
「そう、それにね、入りたくないらしいよ」
「どうして?」
「死んだあとくらいは、ここから離れて自由になりたいんだって。でね、俺には言うんだよ、あんたはうちの墓に入ってよって。跡取りなんだからって」
「夫婦でそんな話するんですね?」
「尾崎くんたち、しない?」
「たぶん、まだ一度もしたことないですね」
その時、桔平の携帯の着信音が鳴った。
「お、真朝が着いたみたい」
確認もせず、桔平が言う。
尾崎がトイレに行った隙に、桔平が会計を済ませてくれていた。
「いつもすいません」
礼を言いながら店を出ると、通り向かいにハザードを点滅させた真朝の車が停まっている。この時間、すでに国道一四〇号も車はほとんど走っていない。
「明日、天気大丈夫みたいよ。気温もそんなに上がらないみたいだから警報も出ないんじゃないかな」
車に乗り込むと、真朝が教えてくれる。
「あそこの河原、午前中は日陰だからいいよ」
助手席に座った桔平が言う。
「お弁当作ろうかって言ったら、みんな、ピザの方がいいって」
車は空(す)いた国道をかなりのスピードで走っていく。尾崎は窓を開けた。少し蒸し暑いが、それでも東京では感じられない冷えた山の匂いがする。
(つづく)

