8月6日に小説デビュー作『檸檬と蜜柑のラプソディ』が刊行されました。
本作は、音楽朗読劇などで文学×音楽の魅力を綴っているふるたみゆきさんの小説デビュー作。テーマはクラシック音楽×お仕事です。
ヴァイオリンの道を諦めた28歳の檸檬が、失意のなか音楽事務所に就職。任されたのは京都出身の天才少女・蜜柑のマネージャー!?
泣いて笑って、明日も頑張る活力になる、そんな作品です。
衝突を繰り返しながらも、少しずつ心を通わせていく二人の奮闘をお楽しみください。
発売を記念して、全2回で第一章を丸々公開いたします。
* * *

ゲネプロは五分後に始まった。待ちくたびれてうんざりしていた指揮とオーケストラの面々も、鈴木蜜柑が現れると顔つきを変えた。
「みなさま、お待たせしてほんまにごめんなさい」
そう言って、蜜柑は深々とお辞儀をした。長い髪がきらきらと垂れる。
「マネージャーの吉田さんの仰るとおり、タイムスケジュールが変更されたんやと思っていたんですけれど……自分できちんと確認すべきでした。今後は気をつけます。本日はどうぞよろしくお願いいたします」
温かな拍手が舞台に湧いた。隣で檸檬は「申し訳ありません」頭を下げて客席へ退いた。
明朗なオーケストラの前奏が始まる。
ニコロ・パガニーニ作曲のヴァイオリン協奏曲第二番、『ラ・カンパネッラ』の呼び名で知られる超絶技巧曲。
蜜柑はソロ・パートの数小節手前まで、なぜかうわのそらに見えた。二階席を仰いだり、靴のかかとを直すようなしぐさをしたりして、他事に気を取られている様子。トランペットが鳴り渡り、いよいよの段になると、しぶしぶという態で弾き出した。
鮮烈な香り。
胸を衝く香気はたちまちコンサートホールを飛び出し、春の野に遊ぶ。甘酸っぱいメロディ。ほとばしるリズム。陽の光を一杯に浴びて輝くハーモニー。人生の場数の少なさを補って余りある、鈴木蜜柑の美味しい音楽。
衝撃は眩暈に似て、思わず檸檬はこめかみを押さえた。音楽が嘲笑う。
──同じ柑橘類でも、たいしたちがいじゃないか。おまえごときにプロのヴァイオリニストを名乗る資格などなかった。『レモネード・クラシック』と称しておまえのやっていた、あの茶番はいったいなんだ。
そうですね、と檸檬は頷く。ヴァイオリンをやめるときはあれほど苦しかったのに、今は引退してよかったと心から思う。どう聴いても鈴木蜜柑に勝てる要素はひとつもない。ヴァイオリニストをめざしたこと自体が、今思えば間違いだったのかもしれない。
油断すると耳から鼻からあふれ出してきそうな感情を押し込めて、檸檬はオーケストラのメンバーに目を転じた。
弦楽器奏者の顔はほぼ全員分かる。コンクール常連の顔あり、高校・大学のキャンパスで見かけた顔あり、不定期ながらトリオを組んだ顔あり。
コンサートマスターは母校の学科長だった。大学二年の夏季特別講座でレッスンを受けた。檸檬の弾くベートーヴェンのソナタを一楽章だけ聴いたのち、学科長はプロフィールシートをぺらぺらめくりながら言った。オーケー、ありがとう。吉田さん、だっけ。教員になる気はないの? 中学校の音楽の先生とかさ、向いてそうだよね。学科のレポートの出来もいいし。今からでも教職課程を履修すればじゅうぶん間に合うからさ。考えてみてよ。
今にして思えば至極妥当なその提案を、二十歳の檸檬は受け入れなかった。かつて美千代師匠にも冬の時代があった。同期の鈴木多果子が活躍の場をひろげるなか、国際コンクールでは予選敗退がつづき、二十代の半ばには演奏から遠ざかっていた。しかし二十七歳、出場制限ぎりぎりの年齢で、美千代師匠はコンコルディア国際音楽コンクールを制し、第一線に返り咲いた。努力さえ怠らなければ、と美千代師匠はよ
く檸檬に言い聞かせた。努力さえ怠らなければ、音楽の神様は必ず見ていてくださいます。ですから檸檬さん、頑張りなさい。あなたには才能がある。そして努力家です。学科長がなにを言おうと、そんな戯言は実力で蹴散らしてやりなさい。期待していますよ。
管楽器奏者は見知らぬ顔ばかりだった。ただひとり、トランペットの首席を知っていた。学年は彼がひとつ上で、直接の交流はないが高校・大学と同じ校舎で学んでいた。
六年前、彼は体調不良で降板した先輩奏者の代吹きで東京赤坂グランドホールの舞台に立っていた。当時は入団一年目の若手だった。楽団の創立七十周年記念コンサート。指揮はベルリンから招聘した大御所。二千人の観客が息をひそめて見守るなか、マーラーの交響曲第五番、冒頭のソロを見事に吹いてみせた。『月刊フェルマータ』のインタビューによると、彼はみずから代吹きに志願したという。音楽監督、ホール事務局長、指揮者ならびに団員全員の前で吹いてみせ、満場一致でソロを勝ち取ったのだった。まぶしい感動が、今も檸檬の耳に刻まれている。今、舞台後方で面倒そうに水抜きしている彼と自分とが同じコンサートに携わっているのは、ちょっとした縁ではあった。
首尾よくゲネプロは進んで、十五分の休憩に入った。そっと溜息をついた途端、
「吉田檸檬さんだよね」
渋いスーツ姿の女性がどすりと隣に腰かけた。
菊地祥子。マネージャー歴三十年、ムーサ・ジャパンで社長に次ぐ古株。
今朝の入社式で見たプロフィール情報によれば、マネジメント課の統括長である。立ち上がって檸檬は、
「お世話になります。デスクワークの経験がなく未熟者ですが、頑張りますのでご指導──」
「すぐ辞めていいからね」
耳を疑った。菊地マネージャーは檸檬を見据えた。
「アーティストの人生預かる仕事だよ。ゆるいスタンスで職場に居られると迷惑。無理だと思ったらすぐ辞めていい」
「──ご指導よろしくお願いいたします」
なんとか言い切った。にこりともせず菊地マネージャーは檸檬を座らせると、手短に説明した。労働基準法にもとづき、午後八時までにはリサイタルを終えなければならない。必ずオンタイムで進行できるよう気を配ること。関係者席にメディア各社と著名な音楽評論家を招待しているので、くれぐれも粗相のないように。鈴木蜜柑がジュニアドレスのイメージモデルを務めているため、ブランドの広報担当者が来場する。社長から紹介があるので、幕間に名刺交換を。
「なにか質問は?」
メモを取る手を止めて、おそるおそる聞いてみる。
「前任のマネージャーさんは、どうして辞めてしまったんでしょうか」
「ああ、鳥羽ドレミね」と、菊地マネージャーはわずかに頬をゆるめた。
「コトブキよ。婚約してベルリンに移住。惜しいけどしょうがないね、こればっかりは」
同学年で独身の自分はさて──と心に暗雲がたちこめるのを、努めて彼方に押しやる。
「蜜柑さんは鳥羽ドレミさんのご退職を、最近まで知らなかったんでしょうか」
「冬休み明けには知ってたはずだよ。でもまだゴネてんの。よっぽどドレミが気に入ってたのねえ」
舞台上でチューニングが始まった。菊地マネージャーは表情を引きしめて立ち上がった。
「じゃ、私は赤坂のオフィスに戻るから、あとはよろしく」
「もう戻られるんですか」
「デスクワークじゃなければ完璧にできるんだよね?」
返答に詰まる檸檬に一瞥をくれると、菊地マネージャーは席を立って行った。
入れ替わりに社長が来て「吉田さん、仕事です」という。立ち上がった拍子に鋭い痛みがはしる。首をひねって右足首を点検すると、見事に靴ずれができていた。OL御用達の『全力で走れるパンプス』が、元ヴァイオリニストのへなちょこ扁平足を拒んでいる。ストッキングの上からバンソウコウを貼りつけて小走りにロビーに出ると、たしかに仕事は山積みだった。
ホール事務局長との打ち合わせ。場内アナウンスの原稿チェック。物販ブースのレイアウト指定。当日券の販売枚数確認。檸檬ほか大勢のスタッフが立ち働くあいだ、舞台上の音声がロビーに流れていた。何事もなくゲネプロは進み、音楽家たちは今や蜜柑を中心にまとまりをみせていた。蜜柑の香りのするほうへ、オーケストラが付き従って行く。蜜柑が廻ればオーケストラも廻り、蜜柑が跳ねればオーケストラも跳ねる。中盤、ハイポジションの続く難所でわずかに蜜柑がバランスを崩した。たちまち四方八方からオーケストラが駆け寄り、手をさしのべ、救命ボートを漕ぎ寄せる。蜜柑はぶじに難所を渡りきった。檸檬は黙って作業を進めた。
ロビーにスタンドフラワーが搬入されると、エントランスは華やいだ。国際音楽コンクール世界連盟様より。学校法人星嶺学園様より。AYAMI RUKA・PARIS様より。
記録を撮ろうとスマートフォンをかまえたところへ、社長が階段を駆け下りてきた。
「吉田さん、あとで蜜柑姫のヘアメイクも頼みます」
「……専門のスタッフさんにはお願いできませんか」
「鳥羽ドレミはチャチャッとやってましたから」と、ポケットから携帯をつかみ出した。
「蜜柑姫のお母様とお姉様に頼んでみたこともあったんですが、本人が嫌がりまして。楽屋に入られたくないそうです。難しい年頃ですからね。まあとにかく、吉田さんはできるでしょう。元ヴァイオリニストですし、リサイタルの主催経験も……もしもし」
声をひそめて、社長は外に出て行った。
「ムーサ・ジャパンさん、お弁当来てますよ」
「伺います」
楽屋口へ走って、四十個の弁当を確認する。ドリンクがない。守衛室に尋ねると、お預かりしていませんとの返事。ホール事務所に尋ねると、来ていませんとの返事。社長の携帯電話に掛けると、自動音声が「電波の届かないところに」との返事。ムーサ・ジャパンの赤坂オフィスに電話を掛けると、自動音声が「大変混み合っております」との返事。
取り急ぎ、弁当のみ配ってしまうことにした。事務所から台車を借りて、楽屋階の廊下まで汗だくになって押して行く。まず指揮者とコンサートマスターと蜜柑の楽屋に持参。扉をノックする。
「蜜柑さん」
返事なし。
「お弁当です」
返事なし。
「入りますよ」
そろりと扉を開くと、天才少女はそしらぬ顔で弓の毛に松脂を塗っている。ちらりと見えた銘柄は、フランスの高級松脂ブランドのサルトリー。一流ヴァイオリニスト御用達の逸品、一個一万円也。
「お茶はのちほど」
見なかったことにして扉を閉めた。廊下のすみに見つけた折り畳み式の長机をひらき、弁当を並べ、オペラ『魔笛』の夜の女王のアリアのごとく高らかに発声する。
「お弁当が参りましたア。みなさんお持ちくださーい」
各楽屋の扉がわらわらひらいて、オケのメンバーが手に手に弁当を取って行く。
「ちょっと、そこの……事務の人!」
大声で呼ばれてふりむくと、同窓のトランぺッターが「お茶は?」
「申し訳ありません、こちらの手違いでまだ」
「おかしいでしょ」と盛大に吹き出した。「塩鮭だの唐揚げだの、まさか水分なしで食えっての? 弁当とセットで手配するでしょ、ふつう」
「ちょっと、ムーサ・ジャパンさん」ホール事務局長が割り込んできた。弁当の積まれた長机を指さすと、白髪まじりの眉をひそめた。
「これ、許可取ってます?」
「お弁当ですか?」
「長机です。備品を使用される際は、あらかじめ申請していただかないと」
トランぺッターが「早めに持ってきて」と絶妙なタイミングで口を挟んで行った。入れ違いに廊下の向こうから社長が来る。携帯電話で話しながら、「いいえ、私はまったく存じ上げず……ええ、ですから」檸檬と事務局長を交互に見て、通り過ぎざまに弁当をヒョイと取って行った。
「ただでさえゲネプロが四十五分も押してますし」とホール事務局長は苦言の続きを呈す。
「私ども裏方はこのホールの運営をすべて受け持っておりまして、今日も一時から小ホールでピアノ五重奏のコンサートをやっとるんですよ。少ない人数で回してますので、ちょっとしたことが命取りなんです。分刻みで動いてるときに、あるべき場所にモノがない。これがいちばん困るんです」
「申し訳ありません」
「鳥羽ドレミさんは、こういうことはなかったんですが」
「すぐ片付けます、お弁当が捌けましたら」
頭を下げておいて、スタッフ用の控室に駆け込む。バッグをひっつかんで廊下に走り出ると自販機でお茶のペットボトルを三本買い、指揮者とコンサートマスターと蜜柑の楽屋に届ける。残る弦楽器と管楽器の楽屋に「すみませんが水分はこれで」と千円札を押しつけて、台車を大至急ホール事務所に返す。ムーサ・ジャパンの赤坂オフィスに掛けると、今度は人が出た。
「ムーサ・ジャパン総合受付でございます」
「本日入社の吉田です」
「もう一度よろしいでしょうか」
「本日入社の吉田檸檬です」
「ドラえもん様?」
「吉田檸檬です。鈴木蜜柑ヴァイオリン・リサイタルの運営で東京赤坂グランドホールに来ております。ドリンク発注についてお分かりになる方いらっしゃいますか」
「かしこまりました。ヤッシャー・レイモンド様より、鈴木蜜柑のリサイタルについてのお問い合わせですね。少々お待ちください」
相手は保留音に切り替わった。のっぺりと流れて来るメロディが、檸檬の記憶をつつく。
エドワード・エルガー作曲『愛のあいさつ』。一八八八年に、作曲家から婚約者に贈られた甘美な曲である。美しいメロディは世界中で愛され、日本人の耳にもすんなりなじむ。
吉田檸檬ヴァイオリン・リサイタル『レモネード・クラシック』のアンコール定番曲でもあった。来場者にアンケートを取ると、いつもこの曲の評判がいちばんよかった。
ありがたく思いつつ、いつも複雑な心地でいた。聴きどころはあくまで本編のプログラムであり、檸檬がその日のために猛練習した超絶技巧の難曲であるべきだった。アンコールでふわりと弾いた『愛のあいさつ』のほうが喜ばれるなどと、そんなことがあってよいはずがない。
でも──と、二巡目に入った保留音を聴きながら檸檬は考えた。
パガニーニだのヴィエニャフスキだの、りきんだ演奏を聴かされて疲れた耳に、『愛のあいさつ』はやさしく響いたのかもしれない。とすると、自分は努力の方向性を間違えていたのか。『レモネード・クラシック』は、お客様の心を明るく晴れやかにするコンサート、と銘打って始めたものだった。趣旨に合った選曲ができていなかったとすれば、それは主催者たる自分の──
メロディが途切れた。ガチャガチャとなにかを切り替えるようなノイズのあとに、
「May I help you?」
流暢な英語が来た。あらためて檸檬が名乗ると、
「なんだ、吉田檸檬か」
相手のトーンが一気に下がる。菊地マネージャーだ。かいつまんで状況を説明すると、
「社長に聞いて」
「お取り込み中で、なかなかつかまらないんです」
「じゃあ現場で判断して」
「現場では発注履歴が分からないので、こちらにお電話しました」
無言で保留が押された。ふたたび流れ出した『愛のあいさつ』が、三巡目でようやく途切れた。
「もしもし。前任の鳥羽ドレミが発注してた。緑茶の缶四十本。シロネコ日時指定便の予約履歴もあるけど届いてないの?」
「現時点では」
「シロネコと相談して」
了解いたしました、という檸檬の応答は受話器を置く音に押しつぶされた。シロネコ運輸に電話し、営業所の手配ミスという原因を突き止め、午後五時頃になりますが必ず東京赤坂グランドホールの楽屋口に届けますという約束を取り付け、その旨をホール事務所に共有し、楽屋の廊下へ取って返すと、弁当はひとつもなかった。
続きは本編でお楽しみください!

