【第5話】我が家に犬がやってきた!~ミニチュアダックスのココロ~


(C)皐月コハル・さかぐちまや/スターツ出版 無断転載禁止
私は、小さい頃から暇さえあれば「犬がほしい!」と両親に言っていた。
「大きくなったらね」という返事に、「何歳?」としつこく聞いていた。
小学生になったら、中学生になったら、高校生になったら……。とはぐらかされ続けたので、高校生の頃には「働いて一人暮らしをしたら飼えばいい」という結論に至った。小さい頃から言い続けていたせいか、その領域に達した自分はある種の仙人のようだと自負していた。
二〇〇二年の春、就職をして家を出ていた兄が衝撃的な発言をした。
「犬、ほしくないか?」
両親にそう聞いたのだ。兄は犬が好きなのか? 私の記憶にはなく、驚いた。
単身赴任中の父が帰ってきている週末のことだった。
けれど、両親の反応は薄かった。
「家が汚れるだろ」
父はそう言い、
「お母さん、動物好きじゃないんだよ」
母はそう答えた。
私は兄が我が家に犬を買ってきてくれるかとドキドキしていたが、両親の反応の薄さに、やっぱり一人暮らしして飼うしかないんだよなぁと落胆した。
しばらく経ったある日。夜中にガサゴソと物音がした。目が覚めて玄関に行くと、兄が大きな荷物を運んでいた。何事か?と思っていると「手伝って」と言われ、車から鉄格子に入った何かを持ってきた。
ジッと見ると、仔犬である。ミニチュアダックスの仔犬。黒にマロ眉毛の子がこちらを見ている。私は悲鳴をあげそうになった。興奮のあまり、ぶっ倒れる勢いだった。
「ど、ど、ど、どうしたの!? この子、どうしたの!?」
兄に問いただしたけれど「とりあえず俺の部屋に運んで」と言われた。
鉄格子はケージであり、ケージの中で仔犬は大きな目をキョロキョロさせている。
なんて可愛いんだろう。ニヤニヤが止まらない。
「で、どうしたの!? この子は何!?」
と聞くと、「母さんが起きる。静かに」と注意された後に説明された。
「俺、しばらく実家に戻るわ、この子と一緒に」
兄は、彼女との同棲先で仔犬を迎えており、同棲中の彼女と喧嘩し、仔犬と共に実家に戻ってきたのだった。この間、両親に犬の話をしたのは、自分たちが留守の時に預かってもらえるか確認したかったらしい。そこからの急展開だ。
「名前は? オス? メス?」
「ココロ。オスだよ」
「ココロかー。ちょっと出してもいい?」
ココロを抱きしめると、もうこの世の幸せはこれである。という感情が爆発した。
可愛い、可愛すぎて食べたいくらいだ。
さて、問題は母である。そして来週末に帰ってくる父もだ。
ココロはまだ仔犬だから、朝昼晩とご飯をお湯でふやかして食べさせないといけない。私も兄も働いている。兄は昼にはなんとか時間を作ってご飯を食べさせに帰って来るというが、私たちがいない間、母とココロはふたりきり。
母は大丈夫なのだろうか?
翌朝、私も兄も休み。使っていない和室にココロのケージを置いてみた。
起きてきた母はケージと中にいるココロをしばらくぼんやりと見ていたが、
「何これ?」
と間抜けな返事をした。
兄が事情を説明している間、私はココロと遊んでいた。その日は「うちが一大事だからしばらく会えない」と私が付き合っている彼氏に連絡をしていた。彼氏には申し訳ないが、私は有頂天だ。うちに犬がいる。二十年近くの夢が今、果たされたのだ。
「……わかった。アンタが自分の家に戻るまでココロもうちにいるってことだね。いてもいいけど、お母さんは一切世話をしないし、ケージからも出さないよ。それならいいけど」
兄の申し出に渋々と承諾している最中にココロは畳の上をダッシュして、ドリフトのように動いている。私は「ココロ! おいでー!」と呼んでいた。
「ちょっとー!! 畳、畳がー!!」
ココロが走って畳に傷が付いた。母は泣きそうな声で叫んでいた。
*
二、三日ほど、兄はココロに昼ごはんを食べさせるために帰り、その様子を母は見ていたらしい。兄が帰って来られない日は母が作るしかない。
夕方、家に帰ると黒い塊が走ってきた。ココロだ。
尻尾ブンブン、目がキラキラ。私に抱きついてきた。
ああ、可愛い。犬にお出迎えされるって最高……。と思っていたが、なぜココロが走ってきたのか。
リビングに入ると、ココロのオモチャを持った母が「おかえり」と言った。
「どうしたの? オモチャ持って。あんなに出すのは嫌だって言ってたでしょ」
「なんかね。毎日、観察してたの。お母さん、本当に動物嫌いなんだけど、ココロには愛着が湧いてきたというか……。遊んであげたら可愛いなって……」
「でしょ? 可愛いでしょ? ココロがこの世の犬の中で一番可愛いんだけどね!」
「ココロね、寝るのよ」
「はい?」
「お母さん、人間は育てたことがあるけど犬はないから。わからないから、抱っこして子守歌を歌ったら寝るのよ」
そう言って立ち上がり、ココロを抱き上げ、背中をポンポンしながら謎の子守歌をうたった。ココロは満足そうに体を預けている。
「お兄ちゃんに無理して帰ってこなくても、お母さんがご飯あげるからいいよ。ってメールして。あとは、お父さんが帰ってくるまでココロのこと内緒にしておこうか」
こうして、母は見事にココロに落ちたのだった。
週末。父が帰ってきた。ドアが開くと、ココロはダッシュして玄関に向かった。
「な? あ? え? は?」
父は玄関で戸惑っている。絶対に怒ると、全員思っていたが……。
「お前はー! なんだあ! どこから来たー!」
今まで聞いたことがないデレデレの父の声がした。
玄関でココロを抱きかかえ頬擦りしている父に「とりあえず中に入ったら?」と母が声をかけた。
母と兄が説明をしているけれど、父は「へー」と適当に返事をするだけで、ひたすらココロと遊んでいる。この辺は私と性格が非常に似ているのだ。ちなみに兄は母に似ている。
「俺はな、犬はダメだって言っただろ?」
「家が汚れるから?だっけ。嫌いなんだよね?」
私が聞くとココロを抱っこしたまま首を振る。
「犬が大好きなんだよ! 飼ってしまったらこうなるのがわかっていたからダメだって言ったんだよ! なー、ココロ。お父さんだぞー」
あー……、それは見たらすぐわかりました。と、誰もが思っただろう。
父は私以上に犬変態だった。家に帰って来ている間はずーっとココロといる。一緒に布団で寝ると言い出した。兄は一緒には寝ていないらしいが、「うるせえ!」と一蹴して一緒に寝た。
日曜日に単身赴任先に帰る時は車の窓を開けて「ココロー!!」と永遠の別れのように叫んで帰って行った。
次の日からは電話である。普段は用事がある時にしか電話をしてこないのに、毎日電話が来る。しかも「ココロに代わってくれ」と言う。ココロの耳に受話器を当てて「ココロに代わったよ」と教えると、ココロと会話をしている。もちろんココロは何も言わないが、機械から声が聞こえるから耳がピクピクと動く。それを教えるとめちゃくちゃ喜んでいた。
毎週帰ってくるわけではなかったのに、毎週ココロに会いたくて高速をぶっ飛ばして帰って来るようになった。
兄が自分の家にココロを連れて帰ると言うと、父は烈火のごとく切れた。兄は、もう少しだけね。と、帰っていった。
*
我が家はココロが来たことですっかり一変した。
母はダックスの育て方の本を買い漁り、ラブラドールを飼っている母の妹にとにかく聞きまくっていた。
兄と彼女がココロをしっかり躾してくれたおかげでココロはあまり粗相もなく、とてもお利口だ。
私はペットショップに通うようになり、ココロのおやつを買いまくった。仕事帰りの楽しみになった。飲み会すら行かなくなり、彼氏と会う日以外はまっすぐ家に帰っていた。
父はココロに引っ張り合いを教えた。引っ張るオモチャはあるのだけれど、父がよく行っていたサウナのタオルがお気に召したようだ。次第にタオルをくわえたまま引きずられるのがココロのスタイルになった。これを我が家では「カツオの一本釣り」と呼んでいた。
さらに、父はココロを寝室へ連れて行き、ドアを閉めて一時間くらい戻って来ないことがある。
「ココロ、例のアレやろうな」
とニコニコしながら連れて行くのだ。
何をしているのだろうと母とふたりで静かに寝室を覗いてみると、父は部屋の中をウロウロしながら「どこですかー? 助けにきました!! どこにいますかー?」と言っている。その側にはココロはいない。息を殺して母と観察を続けた。すると、押し入れの襖を開けて、「こんなところに隠れていたのですか!? もう大丈夫ですよ!!」と押し入れからココロを救出?していた。ココロは何者かに拉致された設定で、父が助けにきたという『救出ごっこ』らしい。
それを見た母は「この人と結婚して二十五年以上経つけど、ちょっとゾッとしてる」と呟いた。
私たち家族はココロをとても愛していた。ココロは寝る前に全員の部屋に行き、家族がいることを確認してから母か父と眠るので、私も部屋のドアは開けっ放しになった。家の中は犬グッズで溢れ、リビングには本格的なケージが置かれた。
ココロは車も大好きだった。平日の休みには母とココロを色んな公園へ連れて行くから、私が運転する。母とココロは助手席に座り、ココロは窓を開けて耳をパタパタとなびかせていた。
散歩から帰ろうとすると、私の車がどこにあるのか理解してスタスタと進み、ドアを開けろと目で促すのだ。
そんなココロではあるが、もともとは兄が飼っていた犬だ。兄は何度もココロを連れ戻しに来る。当たり前なのだが、それを父は許さなかった。
兄は、ココロは自分が育てたと主張する。私たちがデレデレと甘やかすから躾を忘れると言う。父がいない日は数日、自分の家に連れて帰ることもあったが、父から「ココロを返せ!!」と言われるから、仕方なく戻ってくる。本当は返せと主張していいのは兄なのだが、ココロもすっかり我が家を自分の家だと思っているようだった。父は「ココロはうちの子だ!!」と主張する。
兄は説得が不可能だと思い、段々とココロを連れ戻すことを諦めていった。
ココロは吠えない子であり、黒いから時々どこにいるのかわからなくなる。
兄はココロの首輪に猫用の鈴を付けた。
「ココロ」と呼ぶと鈴がチリンチリンと鳴る。ココロは大人になっても鈴を付けていた。
大きくなるにつれて胴が長くなってきた。毛もモフモフになった。
持ち上げると、ビローンと長かった。そしてココロはミニチュアダックスにしてはとてもデカい。マズルも四角い。顔も大きい。
ダックスあるあるはココロで色々と学んだ。
犬用のベッドで寝る時は大体、体がはみ出る。
ケージに入ってもはみ出る。
私たち家族は「ダックス足」と呼んで、大好きな格好なのだが、うつ伏せで後ろ足が伸びている姿は可愛い。短い足を精一杯伸ばしているのだ。そしてうつ伏せの姿は新幹線みたいだ。
ダックスに限らず、犬はリラックスして爆睡する時にひっくり返って、股を開いて寝る。これを我が家は「股パッカン」と呼んでいる。
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股パッカン状態だと、唇がゴムパッキンみたいになる。そして、夢を見ているのか後ろ足が動いたり、寝言も言う。
私だけだったが、ゴムパッキンな唇の匂いを嗅ぐのが大好きだ。今は「犬吸い」と一部では呼ぶらしいのだが、とにかく匂いを嗅ぎまくっていた。肉球は香ばしい。耳や頭はお風呂に入る前は臭いのだが、それもたまらない。他の家族は理解してくれなかった。
私は動物に顔を舐められることも平気なのだが、父と母は嫌がるので、ココロは私のことを常にベロベロと舐めまくっていた。ココロはトイレを失敗しない子なのだが、成長するにつれて、度々失敗した。母となんでだろう?と思って、ココロがトイレに行く時に覗いた。
脱衣所に置いたトイレに入って、オシッコをしているのだが……。
体は半分だけトイレに入っている。
たぶん、本人は自分が長くなったことをわかっていない。しかも平均よりもだいぶ自分が大きいことももちろん知らないだろう。キチンとトイレをできていると思っている。オシッコがはみ出ていることを怒っても「なんのことですか?」と首を傾げて不思議そうな顔をしている。
「ココロごめんね!! 大きいトイレシート買ってくるね」
母が笑いながら謝っていた。
*
ココロは一歳半にして父親になる。
兄の彼女(後の兄嫁)の犬、ミナミ(ミニチュアダックス)と兄の膝の上で結ばれたらしい。小柄なミナミは四匹の仔犬を産んだ。
私は正直、ココロの子どもがほしかった。他人にもらわれるなら、うちにも来ればいいのにと思っていた。それは父も同じだったようだ。それを母に言うと、切れた。
「私はココロが好きなだけで、動物は好きじゃない。二匹もいらない。ココロだけでいい!!」
ほとんどココロを育てているのは母なので、それ以上は私も父も何も言えなかった。
ココロは三月二十三日生まれ。母は四日後の二十七日生まれだ。母の誕生日は祝ったことがなかったが、『ココロと誕生日が近い』という理由で、合同誕生会をするのが習慣になった。主にココロの誕生日に合わせているので、ココロの誕生日の日に私はホールのケーキを買う。名前は『お母さん・ココロ』としていた。
母はケーキのろうそくに火をつけた時にココロを抱っこして写真を撮ってくれと言うのだが、犬は火が苦手なのか、ココロは必ず顔を背けて嫌そうな顔をしている。そんな写真が八枚。つまり、母とココロは八回誕生会をした。八回しかできなかった。――それは母が乳がんを発病してしまったからだ。
がんが発覚する前の母とココロの日常はこんな感じだ。
午前中に洗濯や掃除を済ませる。掃除機の音が嫌いなココロは、父と遊んでいた寝室の押し入れの中で掃除が終わるまで待っている。小さい頃から『救出ごっこ』で押し入れに入っていたためか、怖がらず、むしろ寝ている。
何度も言うが、母はココロ以外の犬が好きではない。興味もない。散歩をする時にお散歩仲間などもほしくはないので、昼の十二時に散歩をする。母曰く、お昼は人がいなくて快適らしい。そして父と母に溺愛されたココロは少しぽっちゃりである。だから、母は散歩をしっかりと一時間半ほどしていた。
たっぷりと散歩をしたあとは、午後二時から始まる二時間サスペンスの再放送を母がココロに腕枕をしながら見る。その間、ココロは爆睡する。と、いうのが平日の母とココロのルーティーンのようだった。
母はココロを息子だと言い、兄と私よりずっと大切だと溺愛していた。ココロも人間くさい犬で、それは母に人間の子どものように育てられたからかもしれない。そして、たぶん、自分のことを犬だとは思っていなかったと思う。母は連れて行ける所にはほとんどココロを連れて行った。ココロは長距離ドライブも平気だった。
母はがんが発覚する少し前から不気味なことを言い出していた。
「ココロはちゃんとお母さんが看取るからね」
「お母さんとココロは一緒のお墓に入るんだもんね」
まだがんだとわかる一年前くらいから突然そんなことを言うから、父とふたりで「なんでそんなこと言うの?」と不思議を通り越して奇妙だと思っていた。母は無自覚だったようで「え? なんとなくだけど」と首を傾げていた。
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