ジョン・エヴァレット・ミレイ《初めての説教(My First Sermon)》1863年、ギルドホール・アート・ギャラリー, Public domain, via Wikimedia Commons.
この場面を描いたのが、ラファエル前派を代表する画家ジョン・エヴァレット・ミレイの《初めての説教(My First Sermon)》です。
モデルとなったのは長女エフィーで、当時わずか5歳でした。
「初めて」に込められた意味
《初めての説教》というタイトルには二重の意味が込められています。娘エフィーが人生で初めて説教を経験したという事実と、ミレイ自身が自分の子どもを初めてモデルに描いたという芸術的挑戦です。
それまでミレイは《オフィーリア》など重厚な歴史・宗教画を手がけ、ラファエル前派の中心的存在でした。しかしこの作品では、家庭のささやかな日常を題材に据えました。赤いケープや帽子といった写実的な細部描写の背後には、父が娘を慈しむまなざしが宿っています。
また画面の構図にも工夫があります。背景は暗く抑えられ、赤いケープだけが鮮烈に浮かび上がることで、少女の存在が神聖な光に包まれているように見えるのです。信仰と幼さが同居するその姿は、宗教的厳粛さと家庭的温かさを同時に感じさせます。
《二度目の説教》──退屈のリアル
翌1864年、ミレイは続編《二度目の説教(My Second Sermon)》を発表します。同じ教会、同じ娘ですが、様子は一変しました。
椅子に身を沈めた少女は、瞼を閉じて静かに眠りに落ちています。帽子は横に置かれ、両手は毛皮のマフの中に収められたまま。前作で背筋を伸ばし必死に堪えていた緊張感は消え、慣れと退屈に抗えず夢の中へと沈んでいく姿です。
ジョン・エヴァレット・ミレイ《二度目の説教(My Second Sermon)》1864年、ギルドホール・アート・ギャラリー, Public domain, via Wikimedia Commons.
「初めて」は背筋を伸ばし、「二度目」は気が緩んで眠ってしまう。誰もが経験する心理の揺れを、ミレイはユーモラスに描き分けました。観る者は思わず微笑み、「わかる、うちの子もそうだ」と共感します。
さらにこの絵には「説教は長くすべきではない」という暗黙の風刺が込められているとも解釈されます。大人が真剣に耳を傾ける一方で、子どもは率直に退屈さを態度に示す──その姿に、時代を超えたユーモアと批評性が宿っているのです。
