速水御舟(1894年8月2日~1935年3月20日), Public domain, via Wikimedia Commons.
14歳で画塾に入門してから40歳で急逝するまでの26年間に、彼は日本画の可能性を大きく広げました。『名樹散椿』は昭和期の美術品として最初に重要文化財に指定されるなど、その功績は計り知れません。
この記事では、御舟の波瀾に満ちた人生と現代にも通じる革新的な芸術表現について、美術初心者の方にもわかりやすく解説します。
速水御舟の幼少期 ~浅草の質屋から日本画界の寵児へ~
速水御舟《翠苔緑芝》1928(昭和3)年、山種美術館、東京, Public domain, via Wikimedia Commons.
速水御舟は1894年(明治27年)8月2日、東京・浅草で質屋を営む蒔田惣三郎・いと夫婦の次男として生まれました。本名は栄一。後に母方の速水家を継いだため、速水姓を名乗るようになりました。
父親が営む質屋には、没落した武士階級の人々が武器や古書画、能衣装などを持ち込んでいました。現在では考えられないほど美術的価値の高い品々が質草として持ち込まれていたわけですね。この環境が画家・速水御舟を生み出したと言えるでしょう。
御舟は幼い頃から絵に関心を示していました。そして14歳のとき、自宅の襖に群鶏の絵を描いたところ、近所にあった安雅堂画塾の関係者にその才能を見出されたのです。ここから御舟は本格的に絵の道に進み始めました。
1908年、御舟は14歳で松本楓湖主宰の安雅堂画塾に入門しました。楓湖は「なげやり教育」と自称するユニークな指導方法で知られる教育者でしたが、御舟の才能をいち早く見抜いて特別に良い手本を与えるよう指示していたといわれています。
16歳でいきなり注目! ~初期の成功・事故・画風変更~
1910年、16歳の御舟は若手画家の登竜門とされた巽画会展に『小春』を初出品します。翌年には『室寿の讌』で一等褒状を受け、宮内省買い上げという栄誉に輝きました。
こうして勢いがつき、御舟の画家としての才能は広く認められるようになりました。
1917年の第4回院展では日本美術院の同人に推挙されました。
この作品について下村観山は「今まで展覧会の審査で、これほど立派な作品に接したことがなかった」と絶賛しました。これがきっかけとなり、御舟は23歳の若さで日本美術院の同人に推挙されました。
このまま進めば、どこまで成長するのだろう? と期待されていた御舟ですが、転機が訪れます。
1919年に左足を切断するという大事故に遭ったのです。市電の線路に下駄がはまってしまい、市電に轢かれてしまったのです。
この事故を境に、御舟の画風は大きく変わりました。それまでの様式を完全に断ち切り、写実重視の細密描写へと移行したのです。
1920年の第7回院展に出品された『京の舞妓』は、この変化を象徴する作品でした。舞妓の衣装の細かい文様から畳の目の一つひとつまで克明に描写したその写実性は、従来の日本画にはない革新的なものでした。しかし、その細密すぎる描写は賛否両論を招き、横山大観は「悪写実」と酷評したほどでした。
あまりに革新的過ぎると受け入れられないものなのでしょうか。「芸術とは好きなように表現すること」という考えの方からすると、新しい御舟の絵が受け入れられなかったことは疑問に感じると思います。
