自身のつらさは、相手を攻撃するための武器ではない
X上での議論における最大の特徴は、男女双方が自身の性別に基づく“生きづらさ”を強く主張し合っている点。それにより相手の立場への共感や理解が不足し、平行線をたどるばかりか対立や憎悪感情がいっそう増してているのが現状です。
女性側の主張には、生理や出産の肉体的負担といった、男性には決して体験できないつらさを強調する傾向があります。それは時に、相手の反論を封じるための“錦の御旗”として利用され、真の相互理解を妨げかねない危うさがあります。一方で男性側は、社会的プレッシャーや経済的評価の重要性を論理的に展開する傾向がありますが、その理屈が女性側に十分理解されていない側面が否定できません。
それぞれにそれぞれのつらさがあるのは間違いありませんが、現代社会においては「女性活躍推進」などの名目で女性のみに寄り添う政策や施策が展開され、多額の公金が投入されている現実があるのも確か。年間の自殺者数が圧倒的に男性に多いにもかかわらず、男性の生きづらさに対する公的な関心や支援策は整っているとは言いがたいのがその一例です。
両性の“生きやすさ”を真に追求するためには、政治や社会が女性の苦しみに寄り添うのと同様に、男性が抱える生きづらさにも耳を傾け、政策面での配慮を用意していくべきではないか。それも、行政だけでなく社会全体、そして女性たちも、ともに足並みをそろえていく必要があるでしょう。
議論に求められているのは、相手のつらさを否定せず、加えて自分のつらさを武器にしない姿勢に他なりません。自身のつらさは、相手のつらさを無いものにする免罪符にはなり得ないのです。
(山嵐冬子)

