
10月16日に放送された野球トークバラエティ「ダグアウト!!!」(毎週木曜夜10:00-11:00、BS10)に、千葉ロッテマリーンズの元エース・清水直行と、埼玉西武ライオンズやロッテで活躍したG.G.佐藤がゲストとして登場。MCの松陰寺太勇とかみじょうたけしととともに、清水のスプリット誕生秘話やG.G.佐藤の異色キャリア、さらにはロッテ・西武の両球団への思いなど、笑いと発見に満ちたトークが繰り広げられた。
■背番号18に込めた覚悟と“スプリット”誕生の真実
清水はロッテ時代、背番号18を背負ったエースとして知られている。しかし18番はもともと伊良部秀輝がつけていたもので、あまりの重圧に当初は抵抗があったと告白。それでも「今振り返れば18番をもらっていて良かった。プレッシャーもあったけど、18をもらったから頑張れた」と胸を張った。
ロッテファンでもある松陰寺が「スプリットを一番最初に投げたのは清水さんじゃないですか?」と尋ねると、清水はすぐさま「僕ですよ」と笑顔で回答。田中将大の代名詞として知られるスプリットだが、実は清水が先駆者だったという驚きの事実が明かされる。
G.G.佐藤も「カットボールを最初に投げたのも清水さんですよ」と続け、スタジオは騒然。清水は照れ臭そうに「もっと言ってください。僕、控えめだから言わないんですよ」と笑いを浮かべるのだが、スタジオでは「清水の名前を付けたほうが良い」という悪ノリが始まってしまう。かみじょうが「“なおボール”とかどうですか?」と提案すると、清水が「そんなダサい名前は…」と意外に鋭い言葉で遠慮して大きな笑いが起こった。
■大学野球の補欠からメジャー経由でプロへ…G.G.佐藤の異色キャリア
G.G.佐藤は法政大学では4年間補欠選手で、ほぼ試合に出場することがなかったという。当時を振り返り、「あの当時の僕を見てプロ野球選手になれると思った人は1人もいなかったはず」と語った。それでもプロ野球選手になる夢を捨てきれなかったため渡米し、300人中1人という狭き門を突破してフィラデルフィア・フィリーズ傘下の1Aに入団。当時を回顧して、「アメリカに行ったら、自分でもびっくりするぐらい野球が上手くなった」と明かす。
その理由としては、アメリカでは日本と違って毎日のように試合があることを上げたG.G.佐藤。「試合に出続けているうちに勝手に強くなった」「監督やコーチも否定・批判することなく、とにかく応援してくれる」などなど、日本との全く違う環境に驚いたという。その後は西武で7年活躍したのち、2011年の戦力外通告をきっかけに一度は野球を嫌いになりかけたG.G.佐藤。しかしイタリアでのプレーを経て再び野球の楽しさを取り戻すと、帰国後に恩師・伊東勤のロッテ監督就任を機に日本球界へ復帰した。
ロッテ時代のエピソードを楽しそうに話すG.G.佐藤を見ていた清水は、「“L”の人だったのに、“M”になってきてる。ライオンズは嫌なことが多かったの?」と鋭い質問を投げかける。これには大のロッテファンである松陰寺も「はっきりさせたほうがいい。G.G.さんの魂は“L”にあるのか“M”にあるのか?」と詰め寄る姿勢。
2人からの圧に屈したG.G.佐藤は、戸惑いながら「ファンの方からも聞かれることが多いんですけど、“G.G.ダービー”って言ってます」と答える。曖昧な表現に「結局どっちなの?」と問いただされると、「ライオンズは“実家”、マリーンズは“地元”」と上手にかわしてスタジオを沸かせた。
■対照的な2人が見せた人間味あふれる名トーク
番組後半では、清水が実際にボールを握りながら「伸びのあるストレートを投げるための極意」を実演。G.G.佐藤も「当てにいくのではなく、遠くに飛ばすことを意識して振り切る」とホームランの極意を明かした。どちらも理論よりプロ野球選手らしい感覚を重視する言葉が印象的だった。
今回の放送では、清水は孤高のエースとしての重圧をユーモアを交えて語り、G.G.佐藤は挫折から這い上がったリアルな野球人生を披露しスタジオを沸かせた。プロというと才能あふれる“上がるべくしてスターダムに上がった”人が多い印象だが、実際にはG.G.佐藤のように努力の人もいることをふと気づかせてくれる。
現役時代は対戦経験こそあるものの、個人的な交流は少なかったという2人。タイプの異なる2人のトークが絶妙に噛み合い、現役時代とは一味異なる人間らしさが伝わってくる放送界だった。プロ野球の華やかな表舞台の裏にある努力と苦悩、そして笑いを届けてくれる「ダグアウト!!!」に今後も期待したい。

