国家に命を絶たれながら、28年が経った今も議論や研究の対象になる稀有な死刑囚がいる。
彼が残した膨大な遺品は支援者らが守り続けてきたが、時の経過とともにその保存が危機的な状況を迎えている。凶悪犯罪の防止や刑罰のあり方を考えるうえでも貴重な資料を後世にどう引き継いでいくべきか。(弁護士ドットコムニュース・一宮俊介)
●刑の執行から約30年、今も影響を与える死刑囚
永山則夫(ながやま・のりお)は19歳だった1968年、東京や京都、函館、名古屋で警備員やタクシー運転手など計4人をピストルで相次いで射殺し、1990年に死刑が確定。1997年8月1日、48歳の時に死刑が執行された。
永山は1949年、8人兄弟の第七子として北海道網走市で生まれ、母親のふるさと青森に移った。貧困や暴力の中で育ち、自殺未遂を繰り返した末に事件を起こした。
逮捕され刑事施設で生活する中で書物を読みふけり、多くの小説や詩を書くように。1971年に出版された手記「無知の涙」はベストセラーになり、小説「木橋」は文学賞を受賞した。

永山を有名にしたのは、こうした生育歴や事件後の変化だけではない。永山の事件では、1審で死刑、2審で無期懲役、最高裁が審理を差し戻した後に東京高裁が死刑を維持し、そのまま死刑が確定した経緯がある。
その際、最高裁が死刑を適用する場合の目安を示し、それが「永山基準」として今も死刑が求刑される事件のニュースで言及される。
日本では、死刑に次ぐ刑罰として無期懲役刑が定められている。両者の間には埋められない差が存在するが、永山基準は、国家権力が一国民の命を奪う際のものさしを示したことで、現在も刑事司法に大きな影響を与え続けている。
●支援者の死後は処分される可能性
永山のもとには裁判中から多くの支援者が集まった。市原みちえさん(79)もその一人だ。永山の本を読んで興味を持ち、手紙のやり取りなどをするようになり、永山の生前最後の面会者になった。
永山が残した“遺産”を継承しようと、引き受けた遺品を整理して展示会を開いてきたが、次の世代にどう残していくかという問題に直面している。

永山の身元引受人になっていた別の支援者も高齢となり、そこで保管されていた遺品も市原さんが引き受けることになった。だが、市原さんの家族は市原さんの死後、資料を処分する意向を示しているという。
その量は段ボール200箱ほどに及び、永山が書いた小説の原稿や日記、手紙、絵、裁判記録、蔵書など。市原さんも全てを確認できておらず、事件に関する新たな話が含まれている可能性があるという。
そんな中、法学研究者らがこれらの貴重な歴史的資料を確実に残そうと、デジタル化やアーカイブ化に取り組み始めた。一般人による閲覧だけではなく、学術的な研究にも活用してもらえる仕組みを作るため、現在、クラウドファンディングのサイト「CAMPFIRE」で必要な資金250万円を募っている。12月22日まで。

