現代における習作の価値
Drawing, pointing left hand and wrist, ca. 1890 (CH 18404489), Public domain, via Wikimedia Commons.
現代美術において、スケッチや習作の位置づけは大きく変化しています。多くの現代作家にとって、プロセス自体が作品の一部となっており、「完成作」と「習作」の境界は曖昧になってきています。
たとえば、Gerhard Richter(ゲルハルト・リヒター、1932-)は、自身のスタジオでの制作過程を写真で記録し、それらも作品の一部として展示しています。これは、創作における思考のプロセスそのものが、鑑賞者にとって重要な意味を持つという認識の表れです。
デジタル技術の発達も、習作の概念を変えつつあります。現代の作家の多くは、タブレットやコンピュータを使ってスケッチを描いており、レイヤー機能により、思考の過程をより詳細に記録することが可能になっています。The Museum of Modern Art(ニューヨーク近代美術館、MoMA)では、こうしたデジタルスケッチをどのように保存し、展示するかという新たな課題に取り組んでいます。
しかし、デジタル化が進む一方で、手描きのスケッチブックの価値も再評価されています。Tate Modern(テート・モダン)が2019年に開催した展覧会「Artists' Sketchbooks」では、David Hockney(デヴィッド・ホックニー、1937-)やPaula Rego(ポーラ・レゴ、1935-2022)など、現代作家たちのスケッチブックが展示され、大きな反響を呼びました。
物理的なページに残された鉛筆の跡や、絵の具の染み、折れたページといった物質性が、作家の存在をより身近に感じさせるからです。
思考の軌跡がもつ普遍的な魅力
レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、藤田嗣治といった時代も地域も異なる作家たちのスケッチブックに共通しているのは、創造という行為が決して一直線ではないということです。彼らのノートには、成功した試みだけでなく、失敗や迷いも記録されています。そして、まさにその「完璧ではない部分」こそが、私たちに深い共感を呼び起こすのです。
完成された名画は、ときに「近づきがたい完璧さ」を持っています。しかしスケッチや習作を見ると、その作品が無数の選択と決断の積み重ねによって生まれたものだと分かります。消された線は、作家が別の可能性を考えていたことを示し、余白のメモは、制作中の思考を垣間見させてくれます。
National Gallery(ナショナル・ギャラリー)の保存修復部門の研究によれば、多くの名画には、X線調査で確認できる下層の変更や修正があり、作家が最後の瞬間まで構図や色彩を調整していたことが分かっています。
こうした「思考の軌跡」を見ることで、私たちは芸術作品を新たな視点から理解できるようになります。完成作品だけを見ていると、天才たちはいとも簡単に傑作を生み出したように思えますが、スケッチブックを通して見ると、彼らもまた試行錯誤を重ね、時には行き詰まりながら、少しずつ理想の形に近づいていったことが分かります。
この事実は、創造という営みが、特別な才能を持つ一部の人間だけのものではなく、誰もが参加できる人間的な活動であることを教えてくれますね。
また、スケッチブックは作家の個性をより鮮明に浮かび上がらせます。レオナルドの好奇心旺盛で学際的なアプローチ、ミケランジェロの完璧主義と執念、藤田嗣治の文化的背景を融合させる実験精神――これらは完成作品からも読み取れますが、スケッチを見ることで、より直接的に、より人間的な形で理解できるようになります。
