川口元郷駅前の交差点を渡り、アパートやマンション、戸建てが並んだ道を私は息を切らして全力疾走している。
キリコ 「はぁ…はぁ…はぁ…」
奏太 「あぁ…! ちっち!!」
キリコ 「わーってる!!」
奏太を抱えているから重いのは当たり前なのだけど、それにプラスして自分の体も重い。
妊娠で増加した体重があと5キロ戻らない。
(いや、もう三年経っちゃったんだから、戻らないというか、定着しちゃってるのよね)
昔は走ると胸が揺れて痛いという思いをしたことはあったけど、今は走るとお腹のお肉が揺れて痛いんです。わかりますか?
(あぁ…もう限界。もう走れない。…いや、負けるな、キリコ。あともう少しで我が家だぞ)
自分を励まし、築29年のマンションにたどり着く。
エレベーターは、最上階の八階に停まっている。
キリコ 「あー! 早くして!」
エレベーターのボタンを連打し、無駄に足踏みし、エレベーターを待っていると、やっと一階に到着する。中には小型犬を抱えたおじさんが乗っている。
おじさん「こんにちは。いい天気ですn…」
キリコ 「そうですねー、じゃあ」
三倍速みたいな速さで返答し、エレベーターに乗り込んだ。
奏太 「もう出る。ちっち出る」
キリコ 「待って! 待って!」
無意味に奏太を揺らしながら、私は数字の横を点滅しながら動くライトを見つめている。
(早く八階、早く八階…)
やっと扉が歩き、再び廊下を全力疾走し、我が家がある804号室の鍵をこじ開けた。
(よし!間に合う!)
そう思いながら、奏太の靴を脱がせていると…。
奏太 「…ちっち、出ちゃった」
キリコ 「え…」
奏太のジーパンがじわじわーっと濃い色に変わっていく。
(あぁ…。なんだったの、この時間)
疲れと共にイライラが襲ってくる。
キリコ 「だから! こうなっちゃうから! トイレ行きたい時は早く言ってね、っていっつも言ってるよね!?」
満 「あー、間に合わなかったの?」
やけにのんびりした声が後ろから聞こえ、そしてそのまま通過し、リビングに入って行く。
夫は散らかったままの部屋が見えていないのか、気にもしていない様子で、ソファーに腰掛ける。
ソファーにはまだ畳んでいない洗濯物があるが、畳む気配はなく、グイッと端に寄せやがった。
奏太 「パパ~! リンゴジュース買ってきた?」
満 「え、買ってないよ」
奏太 「え~!」
満 「お昼ご飯はどうする?」
(いい加減にして…)
キリコ 「ほら! 奏太! こっちに来なさい」
私は無理やり奏太を抱え、お風呂場に連れて行き、濡れたパンツとズボンを脱がせ、奏太のおちんちんをシャワーで洗い流した。
キリコ 「ママ、これ洗わないといけないから、パパに拭いてもらって!」
夫に聞こえるように大きな声で言うも、反応がない。奏太は濡れたままでリビングに向かおうとする。
キリコ 「ちょっと待ちなさい!」
慌てて奏太を捕まえ、タオルで荒っぽく拭く。
奏太 「痛い、痛い」
奏太は嫌がって、逃げるように夫の元に走って行った。
(なんでやってあげてる方がイヤな顔をされて、何もしてない方にニコニコして行くかね。あ~…イライラする)
本来なら、今日は月に一度の癒しデーだったのに。
本当は料理なんて別に習わなくてもいい。今はネットで検索すれば何でも作り方なんて載ってるし。でもそうじゃない。24時間、子どもの世話をしていることから、少し離れたい。そのための理由が欲しいだけ。
それなのに、夫が急な仕事になったせいで、月にたった二時間の癒しがなくなってしまった。それなのに、夫はなに?
ぜんぜん手伝わないで、ソファーに座ってテレビを見始めてる。
このパンツを洗うのは私って決まってるの?
夫はやらなくていいっていつ決まったの?
イライラがマックスに達し、私はパンツを洗っていた手を止める。手に泡を付けたまま脱衣所に立ち、リビングにいる夫に厳しい視線を向けた。
キリコ 「ねぇ、パパ。座ってないでさ、片付けか、皿洗いかやろうって気はないの?」
満 「…あー、うん。そうだね、どっちやったらいい?」
キリコ 「………もういい」
奏太 「ママ~、チョコ食べたい! チョコ!」
キリコ 「チョコはないよ。おせんべいでも食べて。それにこれからお昼ご飯」
奏太 「チョコ!チョ(コ!)」
キリコ 「ぅぅうるさい!! 今、誰のパンツを洗ってると思ってるのぉぉお!」
奏太 「……」
キリコ 「……」
奏太 「う…わ~~ん!!」
どすの効いた声が何の違和感もなく私の口から飛び出し、その迫力に奏太が泣き出す。
そんな現場が見えていないのか、夫は涼しい顔でテレビを見ている。
キリコ 「…パパさ、もううるさいからキットカットか何か買いに行ってくれない?」
満 「ん、りょうかい。」
夫は身軽な感じでフラッとリビングを出て行こうとする。
(おいおいおいおい、待てよ)
キリコ 「……。掃除も食器洗いもあるし、連れてってよ、奏太!」
満 「…あー」
ぜんぜん気づきませんでした、みたいな反応に私のイラレベルがアップする。私はBun'kichenの紙袋を乱暴に取ると、夫の胸に押し付けた。
キリコ 「今日すごい天気いいし、二人でピクニックしてきたら。私は適当に家にあるもの食べるから。」
満 「……分かったよ。奏太、行こう」
二人が出て行き、私はふぅーっと息を吐く。
まだイライラするけど、やっと呼吸が出来た感じ。一人になる時間がないと、私は死んじゃう。
キリコ 「全部、終わったら牛乳プリンを食べよう…」
コンビニの袋に入ったままテーブルに置かれていた牛乳プリンを、私は大切に冷蔵庫に閉まった。